学校教育は将来設計の手ほどき

皆さんが学生の頃の得意科目は何だったでしょうか。計算をするのが好きな人は算数や数学。本を読むのが好きな人は国語。走るのが好きな人は体育。得意科目やその理由は十人十色でしょう。

最近では今までになかったような科目を学校で教えることが増えたようです。例えば外国人教員による英会話授業。広島県では一般選考とは別に特定の資格や経歴を持つ人を対象にした特別選考を実施しており、この枠で採用され県内の中学校のひとつで授業を受け持っているニコラス・ジョーンズさんの活躍ぶりが記事で紹介されています。日本に留学経験もある方のようです。

今でこそ当たり前になりつつありますが、筆者が小学生の頃はまだあまり馴染みがなく、日本人の担任も得意でなかったのか片言の英語を話していた記憶があります。

―「どうせ僕は将来英語を使わないし」「古文なんて読めなくても生きていける」

これは中学生や高校生にありがちな典型的な会話でしょう。筆者もこの手の内容をよく聞きましたし、たまには言ったものです。

確かに断片的には正確な部分もあります。社会人の中で日常的に英語を使っている人は決して大多数ではありませんし、古文の知識を仕事に生かしている人はごく一部です。しかし、見方を変えればそうした考えは非常に損をしている可能性があります。

例えば将来の夢が定まっていないある中学生が「俺は数学が嫌いだし、将来2次関数なんて使わないよ」と数学をしっかり学ばずに高校生になったとしましょう。人生とは数奇なものです。あるときシステムエンジニアに興味を持ち、強い憧れを持ったとしたら、彼はどうなるでしょう。中学から数学を完全に放棄していたために、専門の大学に行きたくても高校生からではとても手遅れ。結局、エンジニアになるのを諦めるしかないかもしれません。

言ってしまえば、学校の先生も、大人になってからも学校で習った内容すべてを覚えていてもらうことなど期待していませんし、そんな人はほとんどいません。高校までに学ぶ、いわば一般教養の科目は、各自が興味や関心をどこに向けるかという選択肢を提供しているのではないでしょうか。まずは広く浅く学校で教え、生徒に「世の中にはこういう分野もあるんだよ」と手ほどきするのが学校教育だと思うのです。人によって苦手科目があるのは仕方ないことです。しかし、将来ふとしたきっかけで今まで思いもしなかった分野に興味が向けられることもあるのです。

まずは苦手科目を出来る限り克服することで、将来使うかもしれない「道具」を温存しておくことを、大学生としてオススメしたいです。

参考記事:

30日付 読売新聞13版16面(くらし 教育)「教育ルネサンス 日本留学の外国人起用」