教室は異様な空気に包まれていました。
中学3年生の時、保健体育の授業で初めて性教育を体験しました。
いつもは厳しく生徒を叱責する体育の担当教諭が控えめな声で教科書を音読し、「コンドーム」「性器」「陰毛」といった単語を発しています。
ある生徒はまじまじと教科書を見つめ、ある生徒は肩を震わせながらクスクスと笑い、ある生徒は赤面で顔を伏せている・・・。
授業が終わった後もクラスメートはなぜかソワソワしていました。
性知識を知っていることを悟られたくなかったのか、あるいは初めて聴く単語の数々に頭がぼんやりしてしまったのか。とにもかくにも、私たちが初めて性教育を受けた時、「人前で話せないことをクラスで共有してしまった」という連帯責任というか、どことない背徳感のようなものが教室に充満しました。
当時、メディアを通じて少なからず性知識を持っていた私には滑稽な光景でした。
生意気にも「思春期は面白いなぁ」などと考えていました。今思えば他のクラスメートと五十歩百歩なのですが。
昨今は学校における性教育の在り方が問われているようです。
「性交渉」「コンドーム」などの言葉を使わないようにしている学校もあるとのこと。
であるならば、どのようにして正しい性の知識を教えていくのでしょうか。
よもや「コウノトリが子どもを運んで来る」とでも言うのでしょうか。
そんなお粗末な性教育は、逆に歪んだ性の形をはびこらせてしまうでしょう。
避妊具を使わずセックスをすれば性感染症や望まない妊娠を引き起こしてしまう。
性器の知識を持っていなければ自分の身体を痛めることにもつながる。
そうした悲劇を防ぐためには性教育が不可欠です。決して「下ネタ」や「エログロナンセンスな話」と同列ではありません。れっきとした予防医学の一つとも言えます。
とは言うものの、軽々しく性の話題を家族や学校内のコミュニティで話すことには抵抗があります。本日付の朝日新聞朝刊で、大阪教育大学の小崎恭弘准教授(保育学)は「『親は教えなくても、そのうち学ぶだろう』と考えるのは違う。やわらかなコミュニケーションの中で性の話もできるのが理想」と、適度な距離を取りつつも、しっかりと伝えることが大切であると説いています。
どこか後ろめたい性の話題をオープンに話せるのが理想とも言えます。
稀有な例かもしれませんが、私は親しい女友達と雑談をしながら性の話題を共有できたことで誤った性知識を得ずに済みました。
女性の生理期間中の辛さ、男性の変声期の戸惑い。二次性徴期の段階で互いの性を理解できたことは有り難いことでした。
性知識を得れば無意識に相手を傷つけることも無くなります。
「コンドームだのセックスだの、エロいネタじゃん」
「お前もやっぱりそういうの好きなんだろ?」
などと言う連中も中にはいるかもしれません。
そんな冷やかしに屈せず、学校教育のなかに恥じらいの要らない「性の共有の場」が出来ることを望みます。
参考記事:
5日付朝日新聞朝刊(東京12版)19面「性教育は『予防接種』親も逃げずに」