朝5時過ぎの始発電車に乗り、7時から座禅を組む
仏教の理念を教える筆者の高校では、毎年12月1日から臘八摂心(ろうはつせっしん)という希望者のみが参加する行事がありました。お釈迦様が悟り開いたのを記念して、50分間、座禅を行います。底冷えのする体育館、早朝ということもあいまって、居眠りをしてしまうこともしばしば。集中していない時には、警策という棒で肩を打たかれます。
一方、インドネシア北西部バンダアチェでは、背中などにむちを受けるようです。
とはいっても、修行ではありません。この地域はイスラム法に基づく刑罰が条例で定められています。イスラムの教えに反して交際した男女4人ずつが18日、公開むち打ち刑に処されました。その場には、市民約200人が集まったと伝えられます。
他人が信仰する教えについてとやかく言うつもりはありません。ただ、気になることが二つあります。
第一に、自ら望んでその教えを信仰しているのかということです。冒頭の臘八摂心では、希望者だけが参加しています。どんなに寒くても、眠くても、そして警策が痛くても、望んで参加したものなら、致し方ありません。今回のむちを受けた男女8人はどんな思いで罰を受けたのでしょうか。
二つ目は、見物する人たちがどんな思いで、その場に居たのかということです。「イスラムの教えに反して、けしからん」という思いなら、そう問題はないでしょう。ただ、あざ笑うかのごとく、見物していたのであれば、それこそ「けしからん」話です。座禅に参加したことを笑われるのは、仏教を信仰していない筆者でも不愉快なものです。忠実に教えを守る人からすれば、なおさらのことでしょう。
臘八摂心でも、「なぜ、こんなことをしているのか」と冷ややかな視線でこちらをみる生徒もいました。同じように筆者からすれば、今回のむち打ちの刑は理解しがたい行いです。だからといって、排除するものではありません。
様々な背景を持った人々が交流することが当たり前になった今、他者を理解する努力は必要です。それでも、時に、相手の考えや思いを想像することが難しいことがあります。そんな時は、一歩離れ、その行動を冷静に見守って、考えることも重要なのかもしれません。
参考記事
19日付 朝日新聞 13版 11面 「婚前キスに罰 公開むち打ち」