持つべきは、近くの知人

広島県北部を襲った土砂災害、現時点で死者50名、行方不明者も38名となり、過去20年で最多のものとなっています。現在もなお、自衛隊や警察、消防などによる行方不明者の捜索や復旧作業が続く中、被災当初より地域住民の力というものが非常に大きな役割を果たしているようです。いくつか例を挙げると、消防隊と共同し、9時間もの時間をかけて、隣人を救出した元自治会役員の男性や県営住宅で生き埋めになった高齢男性を救出するため、男性の協力を募り、住民の力だけで救助に成功した県営住宅自治会長の女性の事例などが挙げられます。
今回の事例で活躍した2名はそのような役職についていたこともあったとは考えられますが、これこそ、近年核家族や独居老人の孤独死などの問題で取り上げられる「コミュニテイ」が機能した事例であり、彼らがこのような役割を果たしてきたコミュニティの力を見直す必要性があるでないでしょうか。

筆者は幼少期から東京のいわゆるベッドタウンで育ってきました。引越しを経験したこともあり、同じマンションに住んでいる人とも、挨拶しかしないという関係が当たり前の日常でした。一度も顔を見たこともない人もいたでしょう。マンションの自治会もなく、町内会のような組織に入っている人もごくわずかであったため、小学校以外で地域との接点を持つことは、ほとんどありませんでした。このような筆者と同じような生活を営む人の多い地域で同様の災害が発生した場合、今回紹介した事例のような「助け合い」は可能なのでしょうか。筆者は難しいと考えています。個人主義というわけではなく、隣人がどのような暮らしをしているかが分からず、誰が災害弱者か分からないということが大きく作用するのではないかと考えています。

もちろん、そのようなコミュニティにもデメリットはあるでしょう。何かしらの持ち回りの仕事や住民の連携が密であるため、プライバシーの問題などを負担に感じる人もいないわけではないでしょう。東京ではそういった個人の生活に共同体が立ち入ることはあまりありません。中世ヨーロッパでは「都市の空気は自由にする」という言葉がありました。領主に搾取されていた農奴は、都市に逃げ込むことによって、封建的な搾取の関係から脱することができるという意味の言葉です。少し大げさな例えかもしれませんが、都市の自由な生活と地方の比較的密な人間関係という観点で見れば、現代でも通用するのではないかと筆者は考えています。

非常時ではコミュニティ内での連携が力になることは言うまでもありません。しかし一年中それが求められるわけではなく、平時ではその絆がかえって負担になることもあるかもしれません。今回の事例では各紙肯定的な捉え方でしたが、皆さんはこのコミュニティの力に対してどのようにお考えですか。

参考記事:本日付讀賣新聞(東京14版)1、39面・同日付朝日新聞(同版)1、39面

 

 

 

 

 

 

 

 

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