今日15日で沖縄が米軍から返還されて52年が経ちました。沖縄戦では県民の4人に1人が命を落とし、20万人以上の人々が犠牲になりました。1945年に戦争が終結し、沖縄は52年のサンフランシスコ講和条約締結で本土から切り離されアメリカの統治下に入りました。本土に返還されましたのは72年5月15日のことです。
戦時中は東京でも大規模な空襲が続きました。東京都東大和市には、大きな被害を受けた旧日立航空機の変電所が保存されています。軍需工場と関わりが深いこの変電所では、今も弾痕を見ることができます。
太平洋戦争は41年12月に始まりました。翌年6月のミッドウェー海戦で日本軍が大敗を喫し、45年3月には東京大空襲があり、4月に米軍が沖縄本土に上陸しました。そして8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、15日の玉音放送で国民に戦争終結が伝えられました。
戦争末期になると軍需工場が立ち並ぶ多摩地方は、多くの空襲を受けました。被害を受けた一つに東京瓦斯電気工業株式会社(39年、合併により「日立航空機株式会社」となる)立川工場があります。元々は大森に工場がありましたが、戦争が長期化し、航空機の発動機を増産するために新たな工場を建設することになります。当時の大和村の南部にあたるこの土地には雑木林が広がっており、水が手に入りにくかったといいます。そのため150mまで掘り下げた井戸から工場に必要な水を得たそうです。38年10月に工場が完成し、この変電所も同時期に作られたと考えられています。
建物の1階に蓄電池室があります。ここには変電所の非常用電源として蓄電池が置かれていました。その壁には2つの銃撃痕が残されています。1つは壁を貫通しています。貫通していない銃撃痕も、外壁に当たった機銃掃射の12.7mm弾の衝撃で壁の内側がすり鉢状にえぐられています。
2階には受変電設備や24時間作業ができるように作られた仮眠スペースがあります。外階段やテラスにも多くの銃撃痕が残っています。
軍に召集された成人男性の労働力を補うために44年4月から学徒勤労動員が始まりました。現在の中学生以上に相当する多くの若者が工場で働き、寮生活を送ります。朝6時に起きて全員で体操をして1日が始まります。服装や会社の門のくぐり方が細かく決められており、軍隊のように厳しかったといいます。
日立航空機の立川工場は45年2月17日、4月19日、24日の3回にわたって空襲を受けました。工場の8割が破壊され従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える人々が亡くなりました。
この変電所は、戦後も弾痕を残したまま後継企業の変電所として93年まで使われていました。その後は取り壊される予定でしたが、地域住民や元従業員の保存活動により残されることになりました。95年には東大和市指定文化財に指定され、保存・改修工事が施されました。
世界には今でも紛争が絶えない地域があります。突然戦闘機がやってきて空から爆弾を落とす。このような残酷な戦争があったことは忘れてはいけないと感じます。これからも戦争の跡を実際に見て学んでいきたいと思いました。旧日立航空機株式会社変電所は毎週水曜日と日曜日には建物の中に入ることができ、戦争の傷跡を間近で見学することができるようになっています。
参考資料:
戦災建造物 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所
https://www.city.higashiyamato.lg.jp/bunkasports/museum/1006099/1006102.html
参考記事:
15日付朝日新聞(東京14版)社会面「年金 取り残される沖縄」