池袋駅から電車とバスを乗り継いで約40分。都会の喧騒から離れ、木々が立ち並ぶ場所に「国立ハンセン病資料館」はありました。
この資料館は、「ハンセン病に対する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消及び患者・元患者とその家族の名誉回復を図ること」を目的として設置されました。前身の「高松宮記念ハンセン病資料館」としての期間も含めれば、設立から29年を迎えます。
しかし、知識の普及や理解の促進に努めてきた資料館の活動と裏腹に、ハンセン病や元患者に対する差別や偏見は、今なお存在しています。
昨年12月に、厚労省がハンセン病問題について全国規模での意識調査を実施しました。約2万人を対象にした調査によると、ハンセン病を「知っている」が38%、「名前は聞いたことがある」が9.8%でした。また、自身の偏見や差別意識について、「持っていると思う」と答えた人が35.4%、「体に触れる」「同じ浴場を利用する」「元患者の家族と自分の家族が結婚する」ことに抵抗を感じる人と答えた人は、それぞれ20%前後いました。
筆者は、小学校や中学校でハンセン病について学んだことはあるものの、「知っている」とはっきり答えられる自信はありません。そもそもハンセン病とはどんな病気で、これまでどんな施策が採られていたのでしょうか。
「らい菌」に感染することで起き、皮膚や末梢神経が侵される慢性の病気です。手足の末梢神経が麻痺することで汗が出なくなったり、熱や痛みを感じなくなったりします。治療しないまま病気が進行すると、顔面や手足などに運動障害や変形などの後遺症が残ることがあります。
1943年にプロミンなどの治療法が発達してからは、確実に治る病気となり、近年感染した日本人は年間で多くても数名程度です。また、菌の病毒性はとても弱いため、発病することはまれとなっています。「癩(らい)」という言葉には差別的なイメージが伴うことから、現在では菌を発見したノルウェーの医師の名前を取り、「ハンセン病」と呼ばれています。
1900年代において、ハンセン病は恐ろしい伝染病と考えられてきました。そのため、国立の療養所を全国に設置し、すべての患者を本人の意思にかかわりなく隔離する政策が長く講じられてきました。1907年に制定された「癩予防ニ関スル件」により患者の収容が始まり、53年の「らい予防法」でも強制隔離の方針が続けられました。薬での治療法が確立された後も、退所規定がないままに強制隔離は続けられ、一生療養所から出られないなど多くの悲しみと差別が生じました。
ハンセン病患者やその家族への制約を加速させた一因として、行政による「無癩県運動」があります。患者がいない社会を目的として、都道府県ごとに官民が共同して患者のあぶり出しや隔離を進めたのです。療養所のなかでは監禁室への閉じ込め、強制的な断種手術や中絶手術などが横行しており、療養所という名前ながら、実態は人としての尊厳が侵された生活を強制されていたと言えます。
資料館を訪れた筆者は、限られたスペースで共同生活を強いられていた様子や、療養所内でのみ使えた通貨の存在、日々の食事や一日の行動の内容を知り、そのあまりにも自由のない生活に驚きを隠せませんでした。一方で、回復者が作った陶芸、文学、絵画、写真などの作品を観て、その方が生きてきた時間に思いを馳せ、力強さと熱量を感じました。
昨今のコロナ禍を踏まえると、病気に感染したことを理由に差別や偏見が生じてしまうのは、現在にも共通する部分があるのかもしれません。しかし、病気にかかっても、後遺症が生じようとも、その人が人間として尊重されるべき大切な存在であることには変わりないはずです。
ハンセン病を知っているのか、名前は聞いたことがあるのか、もしくは知らないのか。
まずは知ろうとするところから。
知るきっかけは、あなたのすぐ近くにあります。
【参考記事】
2024年4月4日付 読売新聞朝刊〔東京〕23面『ハンセン病への意識調査 体の接触「抵抗」約2割 元患者と 差別・偏見根強く』
2024年4月4日付 日経新聞夕刊 9面『ハンセン病差別「ある」4割 初の全国意識調査 教育・啓発届かず』
2024年4月4日付 朝日新聞デジタル 『ハンセン病「差別意識」なお35% 学習経験、抵抗感を下げず? 厚労省ネット調査』
【参考資料】