2023年9月、関東大震災が発生してから100年が経ちました。それは同時に女性解放活動家・伊藤野枝が亡くなってから100年が過ぎたということでもあるのです。
郷里の福岡では、彼女の人生の軌跡を振り返り、未来へと語り継ぐために「伊藤野枝100年フェスティバル」が開催されました。
■伊藤野枝とは
伊藤野枝という女性を知っていますか。名前だけなら聞いたことがある、という人は多いかもしれません。筆者もその1人でした。知ったきっかけは、日本史の教科書に出てきた「甘粕事件」。震災で混乱する中、殺害されたアナキスト(無政府主義者)という認識でした。
福岡県今宿村(現福岡市西区)に生まれた野枝は、上京して上野高等女学校に入学。卒業後は平塚らいてうらが発行した婦人月刊誌「青踏」に参加します。当時の法律で禁じられていた女性の不倫や妊娠中絶、売買春の問題を積極的に論じ「習俗打破」を訴え続けました。
私生活では、16歳で親が決めた家に嫁いだものの、わずか9日で出奔。その後、高等女学校時代の教師・辻潤と結婚して2人の子を産みます。しかし、アナキストで、妻や愛人のいた大杉栄と恋に落ち、事実婚で5人の子を持ちました。そして1923年、関東大震災直後の混乱の中、甘粕正彦ら憲兵隊により、大杉とその甥とともに殺害されてしまいました。
伊藤野枝は、自らの学び・向上・欲求のために行動し続ける、生命力のあふれた女性です。
■「伊藤野枝100年フェスティバル」
15、16日に開催された「伊藤野枝100年フェスティバル」では、講演会や講談、映画上映など、さまざまな催しが行われました。
展示では、1918年、野枝が大杉の不当拘禁を訴えて当時の内務相・後藤新平に送った4メートルもの書簡(複製)が公開されました。達筆な字で書かれた威勢の良い言葉。本で読むよりも、大臣が相手でも恐れることなく主張する野枝の覚悟が、伝わってきたような気がします。
筆者は、野枝について語る学生シンポジウムに参加し、彼女の書いた文章や生き方について話し合いました。一番印象に残った文章は、以下のものです。
安楽や幸福を願えばこそ、何かが怖くなって来るのだ、はじめから、苦しむつもりで苦痛の底に潜んだ何物かをさがすつもりで、かかれば何にも恐れるものはない。すべての迫害、圧迫感、におじて、おどおどした不安な、生ぬるい生を送るより、刹那も強く弾力のある、激しい生き方を私は望ましいと思う。
(伊藤野枝、日記より、『青鞜』第二巻第十二号、1912年12月号)
両親や周囲の人など当時の大多数の人の生き方を「すべての迫害、圧迫感、におじて、おどおどした不安な、生ぬるい生」と表現して強く否定する勇気に驚きました。私自身、このような考え方をしていたとしても、批判を恐れて「闘う意思の表明」と捉えられるような文章を書けません。ましてや、実名で公表する勇気なんてありません。学生記者として、あらたにすで実名記事を書くようになって、特にそう感じます。
また、この文章は、野枝の性格や人生を表したものだと思います。1912年当時、野枝は17歳でした。このときから殺害される23年までずっと「刹那も強く弾力のある、激しい生き方」をしていた芯の強さに、魅力を感じます。
このイベントのテーマは「100年早かった女」です。母親として以上に、女として、生き続けた伊藤野枝。「今」の考え方では、彼女の生き方について理解できないことの方が多いかもしれません。しかし、近年になって認識が広がってきたジェンダー問題に、100年も前から向き合ってきたのです。
過去の文献から、「今」にこそ必要な考えを抽出して活かすことが、私たちに求められているのでしょう。これを機会に、読まず嫌いをしないで、近代やそれ以前の文章も読んでいこうと決意しました。
参考記事
・16日付 読売新聞 犬共ニ虐殺サル…甘粕事件で犠牲の6歳男児、その父親が墓石に刻んだ「激しい怒り」 (msn.com)
・9日付 読売新聞 不倫や妊娠中絶論じ「新らしき女の道」…社会道徳と対決した伊藤野枝が没後100年:地域ニュース : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
・15日付 西日本新聞me 伊藤野枝「100年早かった」生き方 ジェンダー平等、現代に共感 福岡市で9月15、16日イベント|【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)
参考資料
・伊藤野枝著、森まゆみ編『伊藤野枝集』、2019年9月18日、岩波書店
・山村由佳著『風よ あらしよ』、2020年9月25日、集英社