今まであまり注目されることのなかった「震災時の火力発電所」をテーマに福島県浜通り地方周辺で取材しました。記憶をもとにしたことで確認できない箇所もありますが、ひとつの「証言」として、掲載します。
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2011年3月11日。未曾有の大災害が、東日本を襲った。あれから12年。地震、津波、火災、原発、計画停電…。多くのことが一度に起き、情報が氾濫した。特に、東京電力福島第一原子力発電所(福島県双葉郡)の異常が報じられると、世間の関心は、原発事故に集中した。「当時は、原発事故でいろんなことが埋もれてしまった」そう語るのは、加賀谷環(かがや ・たまき)氏だ。当時、東京電力五井火力発電所(千葉県市原市)で事務系の社員として、所長の秘書をしていた。以下の内容は、加賀谷氏の証言を元に構成されている。
迫り来る炎 「全員退避」命令
加賀谷氏は、地震直前まで企業倫理研修を受講していた。揺れが起きた後、構内のソフトボール場に避難したが、近接するコスモ石油千葉製油所(千葉県市原市)が爆発・炎上した。爆風により大物搬入口のシャッターが歪み、凄まじい勢いの炎がすぐそこまで迫ってくる恐怖感があった。
このままでは発電所内に残る数百名の東電社員や協力社員の命が危ない。所長(当時)の大西英樹氏は、加賀谷氏に「全員退避」を命じた。一斉放送を任された加賀谷氏は、「全員退避を呼びかける声が震えていた」発電所には、大西氏だけが残った。所長は「もしもの時は、設備のトリップ(停止)ボタンを押して、発電所と心中する覚悟だった」と加賀谷氏は振り返る。それは、東電社員としての「本能」だったのかもしれない。奇しくも、大西氏は、あの福島第一原発で所長として奮闘した吉田昌郎所長と同期だ。ふたりは発電所の所長として、ともに陣頭指揮にあたった。発電所を守ったのは、海側から陸側へ吹いた「風」だった。加賀谷氏は、それを「神風」と回顧する。
「全員退避」と言っても、簡単ではなかった。発電所は図1上部の海側にあり、一般道とつながる道は一つしかなかった。(図1の黄色い道路)必ず炎上中のコンビナートの横を通らなくてはいけなかった。大規模な爆発があったら「吹き飛ぶ」。もしかしたら、「命を落とすかもしれない」という決死の避難だった。翌日、自転車で駅に向かうと、計画停電の実施を知らせる放送を聞いた。電力会社の社員として、「電気を供給できない悔しさ」を感じたという。
「電気を止めない」東電社員としての誇り
翌日、所長が海水を取り入れる取水口に油が浮かんでいるのを見つけた。通常、火力発電所は発電するためのタービンなどの周辺部を冷やすために大量の水を必要とする。部品を冷却しなければ、熱を帯びてしまい、発電所の機械が正常に作動しなくなるからだ。そのため、取水口から海水を汲み上げ、それを冷却用水として使用していた。取水口に油が混入すると、正常に冷却ができなくなり、発電所を停止する必要に迫られてしまう。所長は「総動員」を指示し、所員総出で油の除去にあたった。「電気を止めない」この一心で、油まみれになりながら回収作業にあたった。
「夏までに必ず復旧する」―火力発電所の奮闘
福島第一原発が、津波によって関連施設が浸水し、機能停止となったのはよく知られている話だ。こうしたトラブルは、太平洋沿岸の火力発電所にも発生した。東京電力が運営していた広野(福島県双葉郡)、常陸那珂(茨城県那珂郡)、鹿島(茨城県神栖市)の三つは、津波により大きな被害を受けた火力発電所だ。地震後から、運転不能となり、停止した。例年5月、6月ごろは一年の中で比較的電力需要が少ない時期だが、夏が本格的に始まると、電力需要が増し、停止した分を他の発電所の電気でカバーできなくなる。「夏までに必ず復旧する」を合言葉に各発電所は、復旧作業を進めた。加賀谷氏も技術系ではなかったが、広野発電所の事務員が「被災者」となったため、応援要員として向かうよう指示された。
復旧作業は難航した。技術的な知識を持つ職員は、全国の発電所の復旧へ駆り出され、分散してしまった。また、発電所の部品は全て特注品のため、それぞれのパーツがうまく組み合わさるか不安が残る。「夏までに復旧する」という思いとは裏腹に、原発事故を起こした東電に対する「バッシング」も加速した。
当初、加賀谷氏のような応援要員は、いわき駅(福島県)周辺に宿泊し、発電所の復旧作業に当たるはずだった。しかし、県議会議員から「東電が浜通りの玄関口に居座ることは許さない」と抗議を受け、北茨城まで撤退せざるを得なかった。震災後1年以上経ったある社員の家のベランダに猫の死骸が投げ込まれていた。干していた東電のユニフォームを見て、誰かが投げ込んだようだった。
いずれの火力発電所も夏までに復旧し、危惧されていた計画停電を回避できた。加賀谷氏にインタビューの終わりに、こうした努力は、関係者の使命感から来るものなのか、と尋ねた。どうもしっくりきていないようだった。「使命感というより、電力マンのDNA」だ。発電所を復旧するのも、電力を供給するのも自分たちしかいない。「やって当然だ」そう答えていた。
くらしを支える電力―あるべき電力体制とは
震災から11年が経った2022年3月16日、福島県沖で震度6弱の地震が発生した。これにより、株式会社JERAの広野火力発電所は設備が故障し、停止を余儀なくされた。3月22日には、季節外れの大雪が関東近郊に降り注ぎ、電力需要が劇的に増加した。2012年の運用開始以降、初めて「電力需給ひっ迫警報」が政府から発出され、政府主導で節電が呼びかけられた。広野火発の停止により、電力の需給バランスが崩れ、「ブラックアウト」の危険があったためだ。
日々当たり前のように頼っている電力システムは、思っているほど強固なものではない。災害などが多い日本は、電力体制をさらに強化すべく、再生可能エネルギー活用などを含めた多角的な対策を進めるべきではないか。