筆者はオーストラリアを旅行しています。昨年5月に日米豪印4カ国の安全保障対話(QUAD)の首相対話が日本で開催されました。10月には岸田首相が訪問し、日豪安保共同宣言に署名しています。豪外務貿易省のホームページには、二国はアジアで最も親密で成熟したパートナー関係であると書かれており、今後の両国関係の発展が注目されます。
しかしながら、第二次世界大戦中の豪州は日本軍と激しく交戦した歴史があります。当時は連合国側として、マレー半島やティモールで日本軍と戦いを繰り広げました。
首都、キャンベラにある国立オーストラリア戦争記念館では当時の記録が紹介されています。東南アジア全域に進軍した日本軍は、自国にとって脅威でした。「彼(日本軍)は南に来る」と書かれた、国威発揚のポスターも展示されています。
日本軍の戦争犯罪についても紹介され、捕虜や民間人を虐待から保護するジュネーブ条約やハーグ条約を遵守しなかったことも言及されています。1946年の極東国際軍事裁判では、多くが嫌疑不十分となったものの「日本の軍規では、降伏は言葉で言い表せないほどの不名誉だったことから、捕虜は見下され、それに合わせた扱いを受けた」と書かれています。
最大都市のシドニーでも、日本軍と関わりのある戦争遺構があります。中心部からバスで1時間ほどの北モナ・ベール岬には、日本軍の潜水艇が沈んでいることを示す記念碑があります。これはシドニー湾攻撃によるものです。
1942年5月31日、日本軍の3隻の特殊潜水艇がシドニー湾に侵攻しました。これにより豪兵19人と英兵2人が死亡したほか、潜水艇に乗っていた日本兵6人全員も戦死しました。2隻は攻撃後に引き揚げられたものの、残る1隻は当時発見されませんでした。攻撃後に湾外に逃げたためです。そして2006年、地元のダイバーによって発見されました。
記念碑の近くで出会った男性によると、シドニー湾への侵攻は学校で習ったそうです。「沈没した潜水艇が見つかったのも知っている、結構有名だ」と話してくれました。
日本ではあまり知られていないように感じる豪州との戦争の記録。ほかにもニューサウスウェールズ州で日本人捕虜が脱走したカウラ事件などがあります。実際に現地を訪れて、歴史を学んだ旅となりました。
参考記事:
2月25日 読売新聞オンライン「『悲劇の痕跡が残されていない』と違和感、オーストラリア人の監督が東京大空襲を記録映画に」
21年6月1日 朝日新聞デジタル「79年前、シドニー湾で3隻が… 旧日本軍の攻撃たどる」
参考資料:
オーストラリア外務貿易省-日本国の概要