8月30日14時10分。私はイランの首都テヘランのホテルで昼寝から目を覚ました。中東旅行も13日目。慣れない土地による疲れなのか、前日まで体調を崩していた。止まらない腹痛と38℃を超える高熱。コロナにかかった時を想定して解熱剤を持ってきて正解だった。一緒に来ていた友人たちと別れ、1人ホテルで寝込んでいたが、この日は幾分調子が良かった。ちょっと鉄道でも乗ってくるかな。私はイラン最大のターミナル駅、テヘラン中央駅に向かった。
行き先表示には知らない地名がずらりと並ぶ。スマホのマップを使って調べようとしたが、うまく通信ができない。昨日、相場が100万イラン・リヤル(日本円で約550円)と言われるSIMカードを20万で買えて喜んでいたが、安さ故か全然仕事をしてくれない。
ただ、私は一駅乗ってすぐに折り返すくらいで十分だと思っていたので、まもなく発車するマシュハド(مشهد)行きの列車にとりあえず乗り込むことにした。どこにあるかわからないが、細かいことは乗ってから考えればいい、そう思っていた。
有人改札の列に並んでいる間、ワイシャツを身にまとったビジネスパーソンのおじさんと話した。英語を話せるイラン人はあまり多くないが、おじさんはとても流暢だった。日本にも住んだことがあるらしい。意外な共通点があって、楽しい時間だった。
食堂車も入れて8両編成。アラビア文字の数字だけは頭に入っていたので、自分の席はすぐ分かった。乗り込むやいなや、列車はとてもゆっくり動き出した。フルアクセルにせず少しずつ加速していく運転方法は、一般的に寝台特急などで用いられる。寝ている乗客を起こさないためだ。この列車も長距離列車なのでは?
「予感」は的中した。発車から30分経っても、全く停まる気配がない。郊外の比較的大きな街バラーミーン(ورامين)も通過し、列車はとうとう砂漠の中に突っ込んでいった。
慌てて車掌さんに最初の停車駅を聞く。その人は英語が話せなかったが、テヘランから250km離れた街セムナーン(سمنان)にまず停まるということだけは分かった。「詰んだ」と思った。仮にセムナーンで降りたとしても、逆方向の列車がすぐ来る保証はない。街の規模も小さく、宿泊先をすぐ手配できそうにない。そもそも、私は十分なイラン・リヤルを持ち合わせていなかった。この国は外貨獲得のためにイラン・リヤルから外国通貨への両替を認めておらず、旅の終盤、無駄が出ないよう所持金を最小限にしていたのだ。
列車が着く頃には両替屋も閉まっているだろうし、今夜は宿なしか。昼夜で寒暖差の激しい砂漠での野宿は身体に堪えるなぁ。
ただ呆然と列車の中を行ったり来たりしていると、通路側の席に座っていた男性とたまたま目が合った。テヘラン中央駅で喋った人だ!「どうしたの、そんな顔して?」。この国ではほとんど誰もマスクをしていないので、表情が伝わりやすい。「実は」。話しているだけで、気が楽になった。
車内は4人掛けの個室で区切られている。おじさんの斜め前に座っていた20代後半くらいの男性も私たちの話を聞いていた。お兄さんはスマホを取り出し、「いつまでにテヘランに戻ればいいんですか?」と尋ねてきた。彼によれば、この列車はこれから隣国・トルクメニスタンとの国境付近まで10時間かけて行くらしい。距離にして約1000km。私はこの列車のチケットを220万イラン・リヤル(約1200円)で購入していたので、まさかそこまでの長距離を走る列車だとは思わなかった。切符の目的地まで行ってしまって飛行機でテヘランに戻る方法などさまざまなプランを一緒に考えてくれた。窓の外はさっきからずっと砂漠の黄土色のまま。気づけば「検討作業」は1時間に及んでいた。
最初の停車駅セムナーンからテヘラン行の列車があるみたいだが、公式ホームページによると既に予約でいっぱい。するとお兄さんはカバンの中から裏が白いA4の紙を取り出し、何やら書きだした。「英語が分かる人ばかりじゃないから、これを駅員とかに見せるといいよ」。31日夜までにテヘランに戻らなければならないことなど、私の切迫した事情を記してくれるようだ。字形がとても緻密なペルシャ文字。揺れる車内で書くのは容易ではない。右から左へ、一単語ずつ息継ぎをしながら丁寧に書いてくれた。列車の走行音の中で油性ペンの音がかすかに響く。私はその様子をただ眺めるしかなかった。
なんでこの人はここまでしてくれるんだろうというのが不思議だったが、なんかちょっとぼーっとしてしまった。春の穏やかな昼下がりのような心地よさ。人の優しさって本当に温かい。
突然、金属同士が擦れる甲高い音が10秒にわたって続いた。最初の停車駅、セムナーンに到着したみたいだ。
(後編へつづきます)
※筆者は現地時間の8月28日にイランのエマーム・ホメイニー空港で10ドルを260万イラン・リヤルに両替したので、1ドル=140円=26万イラン・リヤルで算出していますが、これは公式レートではありません。