なぜひとは表現するのでしょうか。駅前でスピーチすること、写真をInstagramに投稿すること、授業で発言すること、日記を書くこと。どれも表現するということです。これは私たちの生活に密接に結びついており、決して欠かすことのできないものでしょう。しかし、ときに制限されることもあります。表現するとはどういうことなのか。他者の表現に触れる際に私たちに求められることは何なのか。ロシアをめぐる三つの事例から探ってみました。
今月15日からキエフ(キーウ)・バレエが日本ツアーを始めました。ロシアのウクライナ侵攻後、初めての海外公演となり、国外に退避した22人が来日しました。ダンサーらの「舞台で踊る機会がほしい」「ぜひ日本で」という願いが叶えられた一方で、ロシアの侵略が暗い影を落とします。ウクライナの芸術を管轄する機関から同国立歌劇場に対して、ロシアの作曲家の楽曲演奏は避けるように要請があったのです。そのため、今回のツアーはバレエの名場面集のような構成にもかかわらず、「白鳥の湖」「くるみ割り人形」といった、最も有名な作品を踊ることはできません。ロシアのチャイコフスキーが作曲したものだからです。
札幌大学教授の岩本和久さんはパネル展「疫病とロシア文学」を企画していました。この企画展は19世紀のロシアの作家がコレラなどの感染症をどう描いてきたかがテーマ。日露戦争で反戦を訴えたトルストイのパネルも用意し、「ロシアも含め反戦を唱える人たちと連携したい」との願いを込めていました。ところが、企画展が始まる2日前に学長から呼ばれ、延期を打診されたのです。いつまでの延期なのかはっきりと明示されることなく、開催は見送られてしまいました。
岩本は「大学は社会の空気感に負けた。『ロシア』とつくものをタブー視すると、ロシア人やロシア語を学ぶ人たちへの差別や偏見を助長してしまう」と懸念する。
The #Russian Investigative Committee opened a criminal case for "rehabilitation of Nazism" against Oleg Kulik, the author of the sculpture "Big Mother", exhibited at the "Gostiny Dvor" fairgrounds. pic.twitter.com/rAZEsWwKLy
— NEXTA (@nexta_tv) April 20, 2022
ロープに引かれてよろめく女性。ウクライナ生まれのロシア人アーティストOleg Kulikによる作品、Big Mother(2015)です。この作品は、モスクワで今年4月上旬に展示されていました。しかし、第二次世界大戦のスターリングラードの戦いのモニュメント、The Motherland Callsを冒涜していると見なされ、彼は「ナチズムの再興」の容疑で起訴されました。なんと捜査委員会から尋問に呼び出されたのです。The Motherland Callsは剣を高く掲げた女性の像であり、Big Motherはこの像をまるで怪物のように表現しています。さらに、戦いの勝利を称えるこの女性は、まるで操り人形のように四方からロープで引かれています。戦争というものが権力によって操作されている様子を滑稽に描いているようにも感じます。しかし、Oleg Kulikは「最愛の妻との別れのトラウマからの回復」にインスピレーションを受けており、政治的な意味は込めていないと主張しています。
このように、世情や政治の影響を受けて表現するという行為が制限されたり、権力によりその自由がすっかり奪われてしまったりすることがあります。ここに挙げた事例はすべて、ロシアのウクライナ侵攻後に起こったものです。
伝えたい。主張したい。抵抗したい。私たちが表現しようとするとき、こんな思いがその中核になっているはずです。どれも私たちにとって、基本的な感情です。赤ちゃんが泣くのも、この感情からでしょう。赤ちゃんから泣くという表現を奪えば、赤ちゃんは生きていくことができません。同じように、私たちから表現する自由を奪えば、社会は死んだも同然です。だからこそ、今ある表現の自由を最大限に生かすべきでしょう。私たちは表現することで、社会をより生き生きとしたみずみずしいものにすることができるのです。
表現の自由は、何もせずに得られるものではありません。私たちが常にそれを求め、その権利を行使し続けなければ、維持することはできません。どうか表現することをためらわないでください。なぜ表現しているのか。何のために表現しているのか。他者の表現に触れる際には、ぜひ考えてみてください。そこには、あなたへのメッセージや新しい発見があるはずです。
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