私は、プロの記者として仕事をしたことがないので、以下の考察は実情を踏まえない、的外れなものなのかもしれない。素人の一意見として読んでいただきたい。
先日、大学のゼミの課題で書き上げた論文を教授やゼミ生に見せ、講評を受けた。私は自分の論文に対して、「数字を多く使ったので、客観的なものに仕上がったと自負しています」と言った。すると教授から「数字とかそういった客観的なデータであったとしても、どれを使うか選ぶ時点ですでにバイアスがかかっている。完全に中立な論文なんてない」との反論を受けた。確かにそうだなと思った。
このことは、アカデミズムに限った話ではない。ジャーナリズムにも当てはまると思う。例えば、アベノミクスの効果に関する報道。失業率、有効求人倍率、実質賃金、非正規雇用者の割合などさまざまな数字がある中でどれを使うか、どれを中心に据えるかによって、情報の受け手が抱く印象は大きく変わる。
日本新聞協会が2000年に定めた「新聞倫理綱領」には、「新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである」という記述がある。朝日新聞は綱領で「不偏不党」「真実を公正迅速に報道」、読売新聞は「真実を追求する公正な報道」、日経新聞は「公正で信頼されるメディア」を掲げている。どの社も「公正」とは言うけれど、実際はどういうことなのだろうか。
一方に偏らない公正な報道をするために用いられる方法に、両論併記がある。一つの社会問題に対して、賛成派と反対派の両方の意見を並べることで、中立性を保とうとする。しかし、賛成派と反対派の数が大きく違う時、それを1対1の割合で書くことが本当に公正なのかという問題がある。
そもそも、人の意見というのは賛成か反対かなどとはっきり分けられるものなのだろうか。私はこれを疑いたくなる体験をした。
先月17日、大分県日出町のムスリム専用の土葬用の墓地を取材した。ムスリムの団体が3年前、土葬が原則のイスラム教徒のために墓地を建設しようとし、周辺住民が水質汚染や風評被害を恐れて反対したこの問題。墓地の建設に抗議する農家の方は私に、「俺は外国に行ったら外国の習慣に合わせる。右ならえが普通でしょ。日本に来たなら日本の火葬文化に合わせてくれなきゃ困るよ」と言った。ただその直後に、「そうは言っても、亡くなった後のこともろくに考えずに外国人を入れる日本の政府もどうかと思うけどね」と付け足した。
日本に合わせようとしない外国人の態度には納得できない、でも、外国文化を十分に考慮しない日本政府の外国人受け入れ政策にも問題がある・・・話を伺った農家の方の複雑な心境が垣間見えた。
報道の在り方について考える際、賛成派と反対派の人がいることを前提に、これらをいかに表現するかということが重要テーマになりがちだ。しかし、賛成派にも反対派にも迷いがあったり、何か葛藤を抱えていたりする例は少なくないのではないだろうか。そういった迷いや葛藤を削ぎ落として、多数の意見だけを報道するのはやや強引で、公正さが疑われうると思う。
もちろん、取材相手の細かな心情まで描写していたらきりがなかろう。放送時間や記事のスペースは限られている。ただ、メイン以外の意見にも目配りした報道にはリアリティーという評価が返ってくるはずだ。これは非常に価値があるものだろう。
参考資料: