核兵器を保有する米英仏中ロの5か国が3日、核軍縮の姿勢を示す共同声明を発表しました。核拡散防止条約(NPT)に基づいた交渉を進めるとも報道されましたが、実際には核軍縮の遅れに対する非核保有国からの批判をかわす狙いがあるとみられています。
同じ日、筆者は3年前に展示物が大きく変更された広島の平和記念資料館に行きました。正月休みということもあり、家族連れなど多くの人が訪れていました。展示物がリニューアルされて、多くの写真や遺品が展示されています。特に目を引いたのは「原爆の絵」でした。カメラで記録できなかった原爆投下直後の様子が、被爆者によって描かれています。描き手それぞれが体験した原爆には、「凄惨」の一言では表現できない様々な情景や思いがあることを実感しました。
かつての平和記念資料館には、原爆の熱風でただれた皮膚を模した再現人形が展示されていました。筆者が中学校の修学旅行で訪れた際には、人形の前で目をつぶって歩く生徒もいたことを覚えています。人形撤去の方針が明らかになったのは13年3月14日、広島市議会での答弁を通してでした。報道の直後は撤去に関する批判が多く寄せられていたことを、元平和記念資料館長の志賀賢治さんは著書「広島平和記念資料館は問いかける」(岩波新書・2020年)の中で明かしています。展示物の大規模変更では、被爆者の遺品や体験者が絵筆をとった原爆の絵などの「実物資料」をどのように展示するのか、長い間検討されたようです。
同年代の被爆者がいることを実感させられる展示物は、特に印象に残りました。就職を控えた女学生が残した、丁寧な文字で書かれた履歴書などです。大学3年の自分自身と似た境遇であろう学生の遺品を見て、自分のことのように感じました。
志賀さんは著書で「当事者感覚」と「固有名詞」が原爆の悲惨さを語る場合に必要であるとも述べています。女学生の履歴書の資料と同様に、昨年訪れた知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)の展示物も印象に残っています。大戦中に特攻隊として集められた兵士のほとんどが学生であり、同年代の学生が出撃を前に書いた自筆の遺書が展示されていました。明治大や中央大など、東京の大学からも集められたようです。壁に刻まれた出撃隊員一人一人の名前を前に、言葉を失いました。戦時中に生まれていれば、その中にいたのかもしれない。そのような感覚が湧き上がってきたことを覚えています。
戦争体験者の声を聞く機会は減りつつあります。実体験していない者が、どのように戦争を知るのか。そして、どのように後世に伝えていくのか。貴重な資料を通して、戦争の悲惨さを伝える資料館の役割を考えさせられました。
参考記事:
5日付 朝日新聞朝刊(東京14版)1面「米英仏中ロ『核戦争に勝者なし』声明」関連記事
5日付 読売新聞朝刊(東京14版)2面「米露中仏英 核軍縮アピール」
参考資料:
志賀賢治(2020)『広島平和記念資料館は問いかける』岩波新書