毎年「期待」のノーベル文学賞を考える  

今月7日、今年のノーベル文学賞が発表された。受賞したのは、タンザニア生まれのイギリスで活動する作家、アブドゥルラザク・グルナ氏だ。スウェーデン・アカデミーは「植民地主義の影響と難民の運命を、妥協することなく、共感を持って洞察した」と評した。

日本で、この賞が注目されるきっかけとなったのは村上春樹氏ではないだろうか。2006年に「海辺のカフカ」で、ノーベル文学賞の指標の一つと言われている、チェコの国際文学賞「フランツ・カフカ賞」を受賞し、現在まで16年間、最有力候補として、毎年名前が取り上げられている。彼の熱心なファンであるハルキストたちが今年こそと期待を込めるも、結局受賞ならずといったところまでが秋の恒例行事のようになっている。

そんな同賞だが、そもそもどのような特徴があるのだろうか。

まず、日本の芥川賞や直木賞などのように単一の作品に対して与えられる賞ではないという点。「文学の分野で、ある理念的な方向性を持ち、最も傑出した作品を作り出してきた者」に授与されるとされている。

対象の国や言語にも制限がない。どの国の作家で、どこで出版されたか、どの言語で書かれているかは関係なく候補になる。また受賞は作家だけに限らない。2016年に歌手のボブ・ディランが受賞した。

そして、注目すべきは、候補者は発表されないというところだ。選考では最終候補として五人が選出されることになっているが、そのリストは50年後にしか公開されないことになっている。

つまり受賞者が発表されるまで、作家自身も選ばれるのか、そもそも候補に入っているのかもわからない。そんな中で基準となっているのがイギリスのブックメーカーの予想オッズだ。村上氏はここでの人気が高いため、毎年期待される。つまり、世間で「受賞が期待される」や「最有力候補になっている」と言われているのは下馬評なのだ。

筆者自身、村上春樹のファンだ。受賞してくれたら嬉しいなとは思う。しかし、正式に候補に入っているわけでもないのに、毎年のように期待の報道をされ、「今年もダメだった」と勝手にガッカリされている状況は気の毒にも感じる。人気作家のさだめといえば仕方ないのかもしれないが。以前彼の本を読んだ際に、ノーベル文学賞有力候補と騒がれることについて「正直なところ、わりに迷惑」と語っていた。

一人のファンとして、賞を取ろうがとるまいが、彼の作品が自分にとって素晴らしいもので、単純に面白かったり、時に心に寄り添ってくれたりするものに変わりはない。ノーベル文学賞だって、審査する人たちの主観が入る恣意的なもの。結局のところ、自分自身にとってその作家、作品が一番ならそれで良いと思うのだ。

 

参考記事:10月7日付 読売新聞オンライン「ノーベル文学賞、タンザニアのグルナ氏…「植民地主義の影響と難民の運命を思いやり込め洞察」

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211007-OYT1T50236/

参考:「2021年ノーベル文学賞の行方は?」

https://news.yahoo.co.jp/byline/konosuyukiko/20211006-00261334