酒蔵のいま! 「東京の酒を全国へ」 豊島屋酒造

一本の日本酒、そこには酒造りに関わる人々の思いやストーリーが詰まっている。

「酒は人と人の縁を醸すもの」。そう語るのは、東京都東村山市にある豊島屋酒造で営業部長を務める田中孝治さん。同社の看板商品「屋守(おくのかみ)」はまさに、田中さんが出会った人々との縁を紡いで出来上がった酒だ。

《豊島屋酒造》

豊島屋酒造のルーツは1596年江戸の神田鎌倉河岸で、初代豊島屋十兵衛が始めた酒屋兼一杯飲み屋。1935年に酒屋と醸造元を分け、現在の豊島屋酒造が設立された。銘柄は「金婚」など。

豊島屋酒造

《東京から全国へ発信する酒を!》

家業に就いた田中さんは、父の勧めで広島にある酒類研究所へ。それまで異分野の仕事についていたこともあり、当時は「酒造りどころか、酒の銘柄もよくわかっていなかった」。全国の蔵元から次の世代を担う若手が集まる中、3ヶ月の研修を受けた。

東京へ帰ってから、全国の蔵元に戻った同期や先輩の活躍を耳にするように。彼らの酒が評判になるうちに、喜びとともに嫉妬心が芽生えた。「自分もやれるんじゃないか」と考えるようになったという。これまでの酒造りでは売れないと感じていたこともあり、新しいものを作ろうと提案するが社員にはなかなか取り合ってもらえなかった。なんとかしたいと、広島時代に同室だった宮城県「平考酒造」の平井さんを訪ねる。そこでは丁寧なアドバイスに加え、「小山商店」に行くように言われた。東京都多摩市にあるその店は、「日本酒の聖地」とも言われる全国屈指の酒販店だ。

「とにかく勢いだった」。田中さんは笑いながらそう話してくれた。平井さんと飲みながら話した翌朝、宮城から始発に乗って東京へ戻り、自分の蔵の酒も持たずに小山商店の門を叩く。当時の小山社長(現会長)に「東京のお酒で全国でも活躍できるものを作りたい」と熱い思いを伝え、協力を得られることになった。

販路を見つけたことで、杜氏や社員も新しい酒造りに賛同。その後、完成したお酒を持って小山商店へ。それを飲んだ小山社長は「荒削りですね〜、でも筋はある」と一言。「お前の舟に乗ろう」と引き受けてくれた。販売に際して欠かせないのが魅力的な銘柄名だ。創業時から作り続ける「金婚」をと思ったが、小山さんは新しい酒が昔からある「金婚」のイメージに引きずられると反対。「なぜその酒を作ろうと思ったのか、それがなければダメだ」と。

その言葉を受け、田中さんが考え抜いて出した答えが「屋守」だった。「この蔵を守り、扱ってくれる酒屋や飲食店の屋号を守りたい」。そんな思いを込めた。

同社営業部長 田中孝治さん
抱えるのは人気銘柄「屋守」

販売が軌道に乗るまでには時間がかかったというが、20年以上かけて今では全国35店舗で販売されている。かつては「東京」というイメージだけで相手にしてもらえないこともあったそうだが、地道にコツコツと評価を伸ばしてきた。大手の酒類問屋には卸さず、手売りにこだわる。豊島屋酒造の生産量の40%を占める看板商品となった。

特徴は華やかな香りと甘み、そしてキレ。人も食も山ほどある東京という地だからこそ、一本筋の通った味を目指したという。「関わってきた人々には感謝しかない」。田中さんは何度も繰り返す。人との繋がりを大切にする誠意と熱意が生んだ酒であることを強く感じた。

《酒だけでなく、縁を醸す場に》

 

倉庫で行うクラブイベントの様子(現在はコロナ禍で中止)

豊島屋酒造では、「酒蔵を人と人の縁を繋ぐ場所にしたい」という思いから蔵見学はもちろんのこと、様々なイベントを開催している。中でも最大の「豊島屋フェスタ」では、第一線で活躍するD Jを呼んで音楽をかけ、倉庫でクラブイベントを開いたり、仕込み蔵にプロジェクターを当ててシネマの上映をしたり。様々な飲食店のブースも出される。集まるのはお酒好きの人だけではない。イベント好きな人、日本酒に初めて触れる人も訪れる。

 

豊島屋フェスタ

田中さんは「蔵の敷居をもっと低くしていくことが目標」と語る。米どころ、自然豊かな田舎にあるイメージが強い酒蔵だが、都心から電車で一時間弱。東京にも美味しい日本酒があり、気軽にその魅力に触れられる場所がある。筆者も見学させてもらったが、蔵の大きさや漂う香り、雰囲気はとてもワクワクする。お酒に興味がある人もそうでない人も軽いノリで訪れてみてはどうだろうか。何か新しい縁を繋いでくれるきっかけになるかもしれない。

仕込み蔵(筆者撮影)

 

参考記事:

6月18日付朝日新聞デジタル 「酒蔵来てもお酒が飲めない…「悪者扱い残念」苦境の蔵元」

https://www.asahi.com/articles/ASP6K75QLP6GUTIL05M.html