ワクチン接種 生徒に確認 犬山の2中学校
今日の読売新聞朝刊、地域面の片隅にあった見出しです。皆さんは、これを読んでどんな印象を抱きますか。
記事は次のように続きます。
犬山市教育委員会は7日、市内の2中学校で、教諭11人が生徒に対し、新型コロナワクチン接種をしたかどうか確認していたと発表した。
発表によると、確認したのは8月17日~9月6日。教諭11人が、夏休みの出校日や部活動、学校再開後の学級活動や授業時、生徒にワクチン接種の有無を挙手させるなどした。(中略)教育長は「ワクチン接種は任意であり、接種の有無が差別につながるようなことがあってはならない。今回の問いかけは不適切。生徒や保護者に不快感を与え申し訳ない」とコメントした。
SNSでは、このニュースに対して「何がダメなのかわからない。先生なんてやってられないな」という批判的な意見、「これを不適切でないという人は明らかに本質を見誤っている」「差別を生み出す要因」と学校を問題視する意見と賛否に分かれました。
私は、このニュースを取り扱ったほとんどのメディアは、本来取り上げるべき問題点に焦点を絞りきれていないと思います。さらに読売新聞の記事のように、挙手させたことが教育上の重要な問題であるかのような取り上げ方にも疑問を持ちます。
なぜ、この行為が「差別に繋がる」のか。不適切だという人の意見には、次のようなものがあります。
確かに、こういうことが起こる可能性は否定できません。しかし、だからといって教員がワクチンを打ったかどうか聞くことが問題だ、とするのは短絡的にすぎると思うのです。
犬山市の教育長や市長が言うように、「ワクチンの接種は任意」です。接種することで長期的に見た時に起こりうる未知のリスクと、今の自分や家庭の環境で起こりうるリスクなどを天秤にかけて、それぞれが判断すべきことですから。打つ人も、打たない人も、その意思を尊重されるべきです。だとするならば、話の流れでワクチンを打ったかどうか聞いたところで、手を挙げる人も挙げない人もいて当たり前であるはずです。「この問題ができた人ー?」と聞いて、手を挙げる人と挙げない人がいるのが当たり前なのと同じです。
問題は、挙手をさせる行為自体ではなく、その前後に教員が何を伝えているか、実際に先のTwitter投稿で想定されたようなことが起こったとき、教員がどう対応するかだと思います。ワクチンを打つ人も打たない人もいて当たり前だという雰囲気があったのかどうか。生徒はどの程度ワクチンについて理解していたのか。それらを総合的に見て初めて、問題かどうか判断できるのではないでしょうか。私はボランティアで中学生と関わる機会がありますが、先のTwitter投稿のような行動をとる生徒が多数だとは思えません。むしろ、思っているより大人だなと感じることが多くあります。集団ごとにも幼さの度合いは違うはずですから、彼らを日々近くで見守る教員は、その見極めくらいできているのではないか、とも想像します。
この問題が報じられた中学校の教員にお話を伺ったところ、「今日は朝からバタバタだった」と話してくれました。もちろん、重大な問題があれば然るべき対応をしなければなりませんが、ただでさえ多忙と言われる教員に、余計なストレスがかかったと思うと気の毒な気持ちになりました。
報ずる側はこのニュースを取り上げるまでに、問題の所在がどこにあるのか、本当に取り上げるべき事柄だったのか、どれだけ慎重に考えたのでしょうか。仮に挙手させたことでワクチンを打たない予定だった子どもが肩身の狭い思いをしたのであれば、「挙手をさせないようにする」のではなく、「その前後に『ワクチンを打つかどうかは自分で決めて良いことだ』と接種への理解を促すようにする」ことが大事なはずです。このニュースによって、ワクチンの話題が腫物扱いされてしまえば、かえって接種しない人の肩身が狭くなりかねません。
情報発信をする者は、それがどう伝わるのか、誰にどんな影響があるのか常に想像し、その情報の重要性と比較衡量したり、問題の所在を明らかにしたりする努力を惜しんではなりません。現場の声に真摯に向き合わなければなりません。あらたにすで情報発信の一端を担う者としても、そう強く思わされる出来事でした。
参考記事:
8日付 読売新聞朝刊(名古屋圏13版)25面(地域)「ワクチン接種 生徒に確認 犬山の2中学校」