一度、被告人の言い分をとことん信じて、証拠を検討してみよう。朝日新聞の「一語一会」に掲載されたこの言葉。刑事法の専門家である水野智幸さんが、木谷明さんから言われた言葉だといいます。木谷さんは、月曜9時のドラマ『イチケイのカラス』のモデルにもなった伝説の裁判官です。多くの無罪判決を出しながらも、一度も覆されたことがないという凄腕の判事でした。著書の『無罪を見抜く』も有名です。
紙面でインタビューを受けた水野さんは、駆け出し時代を木谷さんの下で過ごしたそうです。任官して2、3ヶ月後、ある強姦事件が発生したといいます。被告は「同意の上だった」と主張したそうですが、状況から見てそうは思えなかった。水野さんは、裁判官室で「まあ有罪ですよね」と言ったそうです。軽く出た一言でした。それに対して木谷さんからは、「一度、被告人の言い分をとことん信じて、証拠を検討してみよう」。冒頭のあの言葉が返ってきたのです。
明らかに有罪である事件でのこの言葉は、水野さんの考えを大きく変えたといいます。結局、有罪の判決が下されはしましたが、木谷さんの信念、もっと言えば美学を感じさせるエピソードです。一つ一つの事件をこうした姿勢で挑んでいるからこそ、無罪を見抜く力は養われるのでしょう。
その後、水野さんは同じ年に担当した事件で初めて、無罪判決を書いたといいます。若い女性が休憩室で赤ちゃんを産み落とした事件でした。赤ん坊の顔に足をのせて窒息させたとして「殺人罪」で起訴された女性の主張は、こうでした。「殺してない」。水野さんは女性の意見に耳を傾けたそうです。次第に、検察側の調書におかしな点が多いことに気づきました。「子宮口が開くのがわかって」と記載されているものの、専門家に聞くと「そんなものはわからない」といいます。男の検事がつくった証言ではないか。そう感じたといいます。その後、医師の証言から新生児仮死の可能性も知り、検証を重ねて無罪という結論にたどり着きました。木谷さんの姿勢は、後輩にもしっかりと受け継がれたのです。水野さんは、その後も先入観を排除することを常に意識したと語っています。
一度起訴されたら99.9%が有罪とされる日本。そのような環境のもとでも揺るぐことなく、無罪を見抜く彼らの姿からは、我々も学ぶことが多いと感じます。『先入観を捨てる』これは、裏を返せば「情報や常識を鵜呑みにしない」ということにも繋がっているのではないでしょうか。木谷さんも水野さんも、検察側の調書を鵜呑みにせずに検証を続けました。こうした懐疑的な姿勢は、誤りを防ぐキーになるはずです。
裁判の場でなくても、我々は他人に対して多くの判断をしています。だからこそ、『傾聴の姿勢』『先入観をなくして考える』の2点を意識していこうと思います。普段の生活ですら、誤解されて苦しんでいる人は多いのですから。
参考記事:7月8日付 朝日新聞 夕刊 多摩4版 4面 『先入観捨て 調べ直す勇気』