書いた本人から見ても賛否両論あるタイトルだと思います。格差を否定する方から見れば、不快極まりない内容かもしれません。ですが、「格差=悪」と捉えるだけでいいのか、今日の投稿はそんな筆者のふとした疑問が出発点です。ということで今回は格差について考えていきたいと思います。
3月から4月にかけて朝日新聞のフォーラム面などで「格差問題」を取り上げたところ、その紙面を用いて授業を行いたいという大学や専門学校があり、担当記者が実際に授業に参加し、学生が格差をどのように捉えているかを紙面で紹介しています。青山学院大学社会情報学部(相模原市)では、「合理的思考と社会行動」という授業の中でどのような「格差」が問題で、どのような解決策があるのかを議論を交わしました。また授業のレポートが課され、学生の格差に対する考えも掲載されました。
レポートを提出した学生は、「0」に近いほど平等に近いことを示す指標であるジニ係数が日本では他の先進国より高く、貧困率が高いことを確認したと同時に、日本よりジニ係数が低いフランスやスペインなどでは格差を感じている人が多い一方、日本よりもジニ係数が高いアメリカでは格差意識はジニ係数のもっとも低いデンマークと同程度であったことに注目しました。この学生はアメリカンドリームという言葉があるように皆に開かれた機会や実力主義の考えが根付いていることが原因と考えています。また別の学生からは、所得の差が教育費用の差にもつながるという意見を挙げられ、議論の結果、所得格差が教育や雇用などのあらゆる格差の原因ではないかという考えに至りましたが、その学生の周囲からは、格差の解消は困難で、全て平等である社会を望んではいないという意見も挙がり、「平等な社会が理想の状態なのか」と疑問を投げつつも、「学習は努力次第。所得による教育格差は不平等だ。」と語っています。
今日はここからが本題です。格差は本当に是正しなければならないのでしょうか。今回のように格差に関する投稿を行うのであれば、「格差は是正すべきだ」や「親の格差が子供に引き継がれてはいけない」など、格差は是正されるべきものだという考えを最後に述べるという形が理想的なものなのかもしれません。ですが、筆者はそうは考えません。「格差なんて当たり前」のものだと考えています。貧困層の家庭で育った方にしてみれば、筆者のようにごく普通の家庭育った人間の方が恵まれているように感じるかもしれませんが、一般家庭の人間から見れば、経営者の家庭に育った人間の方が恵まれていると感じます。言ってしまえば、前者も後者もどちらも格差です。つまり、どこに基準を置くかで格差はいかようにも言えてしまいます。是正しようとすればキリがないでしょう。
加えて、完全に平等な社会は進歩や発展を生まないようにも感じています。個人や企業が自分の生活を豊かにしよう、会社を大きくしようと置かれた状況下で最大限の努力をするからこそ、社会は発展するのではないでしょうか。何をしても平等ならば誰も努力せず、社会は発展も進歩もしません。格差はモチベーションにつながるともいえるのではないでしょうか。
また、格差や育った環境の差は多様な人材を生む基盤にもなるのではないでしょうか。格差と呼ぶほどものではないかもしれませんが、我々あらたにすにも多様な人間がいます。筆者のように下町っ子もいれば、地方から上京してきた人間、トルコに留学した人間やオーストラリアに留学した人間、ごくごく普通の女子大生、宿敵阪神ファンもいます。これらは全て個々が置かれた状況による違いでしょう。阪神ファンからは中学から私立に通っていた筆者が恵まれているという指摘もあり、同じ学生の中でも小さな格差は見え隠れしているのかもしれませんが、その分多様な考えが展開される環境になっているとも感じています。
ここまで述べてきたように格差それ自体の問題を批判するだけでなく、格差がもたらす良い面であるモチベーションや多様性についても評価すべきなのではないでしょうか。ただ、格差の負の側面である恵まれない状況から抜け出せない人も少なくありません。格差解消を目指さなくとも、上を目指したいという人間にはチャンスが開かれるべきでしょう。格差を認めつつ、それをバネに成長できる社会になることが目指す理想なのかもしれません。
参考記事:7日付朝日新聞朝刊(東京12版) 9面(オピニオン)「格差 学生と考えた」