運動部の方が学力を高められるという逆説

私は中学生のころテニス部に所属しており、引退まで常に勉強時間の確保に苦労しました。定期テストの2日前まで試合が続くこともあり、自分の出番でないときはテニスコートの端で友人たちと必死に歴史の勉強をしたりしていました。その経験があったから私は「高校では運動部には入らない」と思い、文化部に入りました。ただ、これは全くの想定外ですが、時間がたっぷりあるがために自主学習でだらけてしまうことが少なくありませんでした。

 

筆者が使用していたテニスラケット(10日 筆者撮影)

高校3年生の初夏、運動部を引退したばかりの友人と自習室で一緒に勉強していた時のことです。私が休憩に入ろうとふと隣を見ると、友人はただ黙々と参考書に向かっています。彼が休憩に入ったのはそれから2時間後でした。さらに彼の休憩時間は私よりも圧倒的に短かった。自分の学習はなんて非効率で集中力がないのだろう。私はひどく落胆しました。

 

9日付の朝日新聞のEduAでは、「部活と勉強 両立するか」という特集が組まれています。そこでは部活に忙しかった生徒ほど引退後は多くの学習時間を割いているというデータが示されていました。私が感じてきたことと全く同じです。

勉強をたくさんしようと運動部を避けたのですが、学習の効率面まで考えると活動の頻度が週4日程度の運動部がベストだったのではないかと思っています。自分が良かれと思ってやったことがマイナスの結果をもたらす逆説、これほど悲しいことはなかなかありません。しかし、このようなパラドックスはけっこう頻繁に起きています。

例えば、経済に悪影響を及ぼさないために、緊急事態宣言や非常事態宣言の発出を渋っての結末。コロナ感染者が増え、長期にわたって宣言を出さざるを得なくなったことで、経済損失はより大きなものになったとの見方があります。他にも民主化運動が広がった「アラブの春」の後のエジプトのように、より高度な自由を求めるあまり、デモが過激化して経済が停滞し、かえって治安維持を重視する強権的な政府ができることも起きています。

経済を回すことや自由主義の追求などといったこれらの目的を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、現に逆効果を招いてしまっている以上、これらのやり方を全面的に肯定することはできないと思います。

 

では、逆説的な事態を防ぐにはどうすればいいのか。それは目的ではなく手段に焦点を当てることです。私は、「学力を高める」という正しい目的のための手段だからという理由で「とにかく勉強量を増やす」ことを目指しており、手段そのものをきちんと吟味していませんでした。もし丁寧に検討していれば、学習効率というもう一つの重要な要素に気づけていたと思います。

新型コロナウイルスによってプライベートな生活から国際関係までさまざまなことが変化しています。その不安からか、現状に対する不満が膨らみ、求めたいことがたくさんあります。読者の皆さんもそうではないでしょうか。ただ、その求めたいことが正しいとしても、そのための手段は適切ですか。目的が正しければ手段も正しいという短絡的な考えに陥ってはいませんか。外出がはばかられるご時世です。家の中で冷静に考えてみるのはいかがでしょうか。

 

 

参考記事:

9日付朝日新聞 EduA3面「【特集】部活と勉強 両立するか」

参考資料:

BS1スペシャル「“自由の声”が消えゆく世界で -アラブの春から10年 夢の先に-」、NHK 、 2021年4月11日放送