今朝の日経新聞朝刊の1面コラム「春秋」に、筆談でコミュニケーションを楽しむ喫茶店の紹介がありました。数年前からあるそうですが、誰も話さないため、とても静かで居心地の良い店内。卓上のノートで今まで訪れたお客さん同士の会話を垣間見ることができ、中にはドラマチックな愛の告白も。「見ず知らずの人々が静かに思いを伝えあい、黙って立ち去る。こんな飲食空間の需要は、結構あるのかもしれない。不思議と心が癒された」と結んでいました。
これを読んで思い出したのは、私が所属しているボランティア団体での食事シーン。自然体験に加えて遊びや人との交流をするべく全国から集まった子どもたちと寝食を共にするのですが、今年は新型コロナウイルス感染対策を入念に施しました。食事にはおしゃべりを控える「もぐもぐタイム」が設けられましたが、そこで生まれたのがジェスチャーゲームのようなコミュニケーションでした。
天ぷらが美味しいと思ったら、それを指さしてにっこりしながらグーサイン。離れた位置にあるソースをとって欲しいときは、ソースをかける仕草とお願いするポーズ。伝わらないときは、理解できた人が一緒になって、あの手この手でジェスチャーが始まります。思いが伝わったときの喜びはひとしおです。
マスクをしたあとに「このときの合図、よくわかったね」と笑い合ったり、「美味しい時のサインはこれにしようよ」と次の作戦を立てたりと、「しゃべってはいけない」という制限を逆手にとりワクワクして食事を楽しむことができました。
私たちの日常生活でも、コロナ禍で対面の機会が制約されました。急速に普及したzoomには一度にたくさんの人と話せなかったり、誰がどこを向いているのかわかりにくかったりする欠点があります。しかし、最近ではチャット機能を駆使するようになりました。わざわざ発言するまでもないくだらない話題、「その服いいね、どこの?」というような個人的な内容なら1対1のチャットに。その結果、いくつものコミュニケーションが同時並行で進みます。二人にしかわからないおかしな話に笑いをこらえるちょっとした特別感は互いの距離を縮める気がします。「家にあるものでしりとり」をすることで、普段知ることのないプライベートな一面が分かる機会も生まれました。
「コロナ疲れ」という言葉をニュースで目にするようになってしばらく経ちました。対面でマスクのないコミュニケーションが当たり前だった世界が、そろそろ恋しい。このウイルスへの悪口ならきりがないほど出てきます。でも、コロナのせいで「制限」された楽しみも、工夫次第で「楽しい」にできるかもしれない。
長く続くなかで「これはできないからな」とやめる判断をすることに慣れてしまいましたが、「そっちがその気ならこっちだって手を打って楽しんでやる」くらいの気持ちを。あれこれ知恵を絞って、新しい楽しみを探していこうと思います。
参考記事:
14日付 日本経済新聞朝刊(愛知13版)1面「春秋」