デジタル教科書は不要?京都の小学校の歴史から考える

行政のデジタル化を掲げる菅政権で、教育のあり方を大きく変える動きが加速している。教科書を紙から原則としてデジタルに移行。児童生徒向けの端末を一人一台配布し、公正さに配慮したうえで、個別に最適化された創造性を育む教育を持続的に実現するというのだ。

「紙と活字が人間形成の基本だ」

1月31日、読売新聞の社説の見出しである。昨年12月1日~5日の同紙朝刊で、「デジタル教科書を問う」という見出しの記事が5回にわたって掲載された。同紙は健康、学力、費用の面から批判的である。長い教育の歴史を考えると、登場してからさほど年数が経っていないデジタルに教育を委ねて大丈夫なのか。利点や海外の事例にも言及しつつ、教科書は基本的に紙で、デジタルは学習の補助教材としてとどめるべきだと主張する。

これからの授業、教科書はどうあるべきなのかを考えようと、京都市下京区御幸町通りにある京都市学校歴史博物館に向かった。「学生の街」だけあって、京都では古くからの小学校が多く残っている。漢字ミュージアム京都国際マンガミュージアムのように、元の建物がリニューアルされることも多い。同博物館も依然の開智小学校の校舎を利用している。

2月1日/京都市学校歴史博物館/筆者撮影

博物館で学んだのは次のような歴史だ。

1869年、京都では町衆たちによって、当時の住民自治組織であった「番組(町組)」単位で64の小学校が創設された。番組小学校と呼ばれ、72年の国家による学校制度(学制)に先立つ、日本で最初の学区制小学校だった。住民自治であったため、運営資金は住民から徴収。学校の敷地内には役所、保健所、交番なども建てられ、町のための学校という位置づけだった。

教科書から見る京都の教育100年/筆者作成

開校当初はまだ教科書というものはなく、寺子屋で使用した「往来物」と漢学塾の「論語」を使用した。また定例日には心学道話と儒教講釈を行い、基本的には読み書きだけの授業だった。71年に入ると維新の啓蒙書が教科書として使用された。和・洋・漢の翻訳本、海外事情を知るために扱った福沢諭吉の「西洋事情」などが挙げられる。80年からは欧化主義に批判が集中したこともあって、日本の国風を尊重する方針に変わり、翻訳本が廃止された。二宮金次郎の像が建てられたのもこの時期だ。バラエティーに富んだ出版社の教科書は、教育勅語のもとで国定へと変更される。太平洋戦争時には戦争や軍にまつわる内容もあり、敗戦後はGHQの命令により軍国主義や神道思想が見られた箇所は墨で黒塗りされた。

自治体が運営していた時期は住民の考えがそのまま反映され、その地域で生きていくためにどういう教育をするべきかを議論していた。そのため、京都では日本画の授業が昔から組まれている。伝統産業の基礎技能の1つとして、後継者育成を目的に独自の教科書をもとに教えていた。西陣方面の小学校では、西陣織を体験する授業が今も残っているという。

歴史を振り返ると、授業や教科書は社会的背景を反映しつつ、その都度変化していることが分かる。デジタル教科書はどうなるのだろうか。IT化により、さまざまな場面で作業が効率化され、紙という媒体に触れる機会が減っている。その影響は本、地図、書類などにも及ぶ。コロナ禍で広がった大学のオンライン授業では先生からPDFのレジュメが送られ、それをもとにZOOMで講義を受けることが主流になった。ペーパーレスがすでに定着しつつある。

「紙と活字が人間形成の基本」というのは、やや古い考えだ。学力や健康の面で芳しくない結果が出ているのは、そもそも教師、生徒の両者が使い方に慣れていないだけではないか。たしかに、教育分野にITが導入されてから、まだ数十年も経っていない。避けては通れないIT化社会において、なるべく早い段階から積極的にデジタル機器に触れる機会を増やすこと。人間が技術に合わせて、寄り添っていく姿勢が大切だと考える。教科書もデジタル化を進めていくべきではないだろうか。

参考記事:

2020年12月1日~5日 読売新聞朝刊「デジタル教科書を問う1~5」

2021年1月31日 読売新聞朝刊13版3面「社説 紙と活字が人間形成の基本だ」

取材先:

京都市学校歴史博物館