安楽死 定義から確認 丁寧な議論を

安楽死の定義を、皆さんはどのように捉えていますか。

日本での伝統的な定義は、「死期が切迫している患者の耐えがたい肉体的苦痛を緩和・除去して、患者に安らかな死を迎えさせてやる行為」を意味します。

24日付の朝日、日経、読売それぞれの一面には、「嘱託殺人」の文字が。全身の筋肉が衰える難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の患者から依頼を受け、京都市内の自宅で薬物を投与して殺害したとして、23日に医師が逮捕されました。各紙とも、社会面で改めて大きく詳細を報じています。そこでは「安楽死」の文字が散見されました。SNS上でも、この事件を受けて「難しい問題だけれど、安楽死・尊厳死の議論を進めよう」という意見を見かけます。

私は、「安楽死」という言葉と今回の事件を安易に結びつけることは危険だと感じています。

いま日本でされている安楽死の議論のほとんどは、「肉体的苦痛を緩和・除去して患者に安らかな死を迎えさせてやる行為」についてであり、そこに「精神的苦痛を緩和・除去する」目的は含まれていません。それを含めば、優生思想を拡大させる危険性をはらんでいるからです。例えば「生産性がない」と自分の生き方に否定的になり、精神的苦痛を抱えていることを理由に自らの命を絶つことを認める。これは「あなたはいなくてもよい」といわれる人の存在を認めることにつながります。全体の利益のために個人の行動をも強制しうる社会功利的観点から、「不必要な人間が存在する」ことを認める優生思想にほかなりません。もし、身体的には健常に見える人が「精神的に苦痛だから死にたい」と言ったとすれば、きっと誰もが止めるのではないでしょうか。

今回の事件で、被害者が死を望んだのは「指一本動かせない自分がみじめでたまらない」など、自らの身体の不自由さから来る「精神的苦痛」からです。被害者、加害者共にブログやTwitterで繰り返し「安楽死」の容認を認めていますが、ここで言っている「安楽死」は「精神的苦痛から来るもの」で、本来の定義からは逸脱していることをはっきりと区別しなければなりません。

さきほどの3紙では、高等裁判所や地方裁判所の過去の判例で示された安楽死の要件を引き合いに出してあてはめた上で「安楽死にはあたらない」としています。しかし、そもそもその要件は、刑法上定義される「肉体的苦痛を緩和・除去するための安楽死」が前提です。そもそも、今回の事例にあてはめる必要がないのです。

「安楽死」の議論をするためには、様々なケースを考えなくてはなりません。自分の持っている先入観をもとに、ひとくくりにして考えようとすれば、議論が必要以上に複雑化し、迷走しかねません。市民間での議論が進まなくなる可能性もあります。

正面から向き合うためには、市民一人ひとりが個々の事案がはらむ問題点に真摯に向き合い、ひとつずつ疑問を解消し、論点を整理する努力が必要不可欠です。

 

参考記事:

24日付朝日新聞朝刊(愛知14版)1面「嘱託殺人容疑 医師2人逮捕」関連記事22面

24日付日経新聞朝刊(中部13版)1面「嘱託殺人疑い2医師逮捕」関連記事23面

24日付読売新聞朝刊(愛知13版)1面「ALS患者を嘱託殺人」関連記事27面

 

参考資料:

井田良 丸山雅夫著「ケーススタディ刑法 第4版」2015年 日本評論社