22日から24日にかけて、故郷の宮城県に帰省し、東京から来た他大学の後輩たちと共に東日本大震災の被災地を回った。沿岸部の各地で遺族の話を聞き、大川小学校(石巻市)、仙石線旧野蒜駅(東松島市)、気仙沼向洋高校(気仙沼市)などを訪問した。震災から間もなく9年が経とうとしているが、被災地では今も工事車両が行き交い、防潮堤や道路の工事が続いている。ある学生からは「ここに街があったとは思えない」との言葉が漏れた。家々が立ち並び生活が営まれていた沿岸部の街も、今では更地が広がり荒涼とした光景になっている。そうした場所で足元をよく見ると砂利に混じって青や赤茶色のかけらが落ちている。それらは津波で流された家の屋根瓦やレンガの一部だ。目で見えるかつての街の証はそれだけしか残っていない。今年は安倍晋三首相が所信表明演説で「復興五輪」と意気込む東京五輪・パラリンピックが開催され、震災からの一区切りが打たれようとしている。ビッグイベントの終了後、震災の記憶の風化が加速しかねない。
こうした中、記憶を伝承する語り部の存在が欠かせない。24日、宮城県南三陸町では「全国被災地語り部シンポジウム」が開催された。災害の教訓を伝承する語り部の役割や意義が話し合われた。参加者からは、東北の語り部活動を世界で通用する「KATARIBE」として後世に伝えるため、参加者からは「個人の体験だけでなく多様な体験を共有することが大切」「世界を救える教訓を伝えることが恩返しになる」など、多くの意見が出た。また震災遺構の意義について「物言わぬ語り部。外国人にもわかりやすく伝えられる」との声も出た。
筆者自身もこれまでに語り部の話から震災の教訓を得た経緯がある。大学1年生の頃から被災地に通い、多くの話を耳にした。
震災当時沿岸部の小学校で校長を務めていた男性からは「どれだけ話し合っても完璧なマニュアルは作れない。想定外があると考え、マニュアルの完成度は8割程度と考えた方が良い」と教えられた。以降、防災マップなどを見るときは慢心せず、想定以上の災害についても考えるようになった。
辛い経験を語り、二度と同じ悲劇を繰り返さないために語り続ける語り部もいる。東松島市に住む女子大学生に市内を案内してもらった際には「あそこで親友の遺体が見つかった」「あのゴルフ場のネットに遺体が引っかかっていた」と当時の様子を教えてくれた。何気なく通る道も、かつては壮絶な状況があったこと知った。
また、女川町で働いていた銀行員の息子を亡くした夫婦は「企業防災」の大切さについて説く。「皆さんがこれから入る会社は企業の利益より、人の命を優先して考えているかを確かめてほしい」。企業管理下で家族を失った夫妻の訴えは、これから社会人になる私たちの心にいつまでも残る。
娘を津波で亡くした石巻市の女性は語り部として震災を伝承する覚悟を教えてくれた。「命の上に成り立つ教訓があってはならない。でも起こったことだから、せめて、語り部としてみなさんに伝えていく」。教訓のバトンは脈々と受け継がれている。
筆者は4月から新聞記者になる。バトンを受け継いだ者として、教訓を伝え続けたい。
参考記事:
25日付朝日新聞朝刊(東京13版S)17面(地域面宮城版)「KATARIBE 震災の教訓世界へ」
24日付日本経済新聞朝刊(東京12版)27面「命守る防災 重要性訴えて」
参考資料
25日付河北新報朝刊(16版)23面「教訓伝承が恩返しに」