発信者としての痛みと覚悟

2018年4月からおよそ2年間、あらたにすメンバーとして記事を執筆してきた。数えてみたところ、この投稿で65本目となる。

あらたにすでは学生メンバーが毎月シフトを決め、一人につき月2、3回の執筆担当日があてがわれる。朝日、読売、日経の各紙朝夕刊を読み比べ、気になった記事をもとに各々が「今伝えたいこと」や「訴えたいこと」を書く。振り返ると、私が書いたほとんどは、生まれ故郷の東北や、中学1年生で経験した東日本大震災、そして留学先の韓国にまつわるものだった。2年間で痛いほど感じたのは「発信者としての責任」である。

ある時「驚異」と表記すべきところを誤って「脅威」と記入してしまった。気づかずそのまま投稿すると、まもなく読者から指摘が届いた。「朝日・日経・読売の新聞3社相乗りサイトを源流とした媒体としては、あまりにも恥ずかしい誤変換です」。猛省し、以降は投稿前のダブルチェックを心がけた。

昨年3月には、留学先の韓国での経験を記事にした。すると、それを目にした韓国の大手紙「京郷新聞」の東京特派員が同紙のコラムで取り上げてくれた。自分の記事がほかのメディアで取り上げられるとは、思いがけないことだった。

一方、京郷新聞のコラムを見つけたネットユーザーが、インターネット掲示板に記事を転載し、スレッドを立てていた。知人を介し、そのスレッドの存在を知った。内容は韓国を罵倒するものがほとんどで、私個人に対する誹謗もあった。「そもそも韓国に留学する日本人ってのがなwww」「この猪股何某の記事を見ててもバランスが取れた市民の目線とはほど遠いテンプレ左翼」。いつしか、自分の名前を検索すると「反日」「左翼」の文字がちらつくようになっていた。その後も、特に韓国関連の記事を更新するたび、顔も知らないどこかの誰かに後ろ指を指された。ある時は同じあらたにすのメンバーから「あなたの記事が掲示板にあがっている」と指摘され、ギクリとしたこともある。だが、むしろ「伝えたいこと」ばかり考え、読者への「伝わり方」を考えていない自分を恥じた。発信者として、批判を受ける覚悟ができていなかったと思い知った。

改めて今、自分のプロフィールを読み返す。

「生まれも育ちも宮城は仙台。通学のため今は首都圏在住。それでも心は東北に。読書と韓国語とヒッチハイクが趣味です。特技は市区町村の名前と場所を暗記すること。しかしあまり生かせません。発信無くして関心興らず。あらたにすの記事から世界を少しでも良い方向に動かします。地方出身者としては中央から見えない理不尽を伝えていきたいです」。

少し、いや、大いに青臭いプロフィールだ。果たして世界を良い方向に動かせたか。理不尽を伝えられたか。2年間、1度も締め切りを遅らせず、38度の熱があっても記事を書き続けた。記事を書くため、ある時は三陸まで足を運び、またある時はソウルまで飛んだ。北海道から沖縄の各都道府県庁に電話をかけまくったこともある。65本の記事1つ1つが読者へどのように届いたのか。少しでも何かが良い方向に動かせたのであれば幸いである。

発信者としての痛みを知り、覚悟を決めた。私は来月から、ある地方の新聞記者になる。あらたにすで培った思いを胸に、今後も駆け抜けたい。

参考記事:
朝日新聞 2018年4月1日付朝刊〜2020年3月22日付朝刊
読売新聞 2018年4月1日付朝刊〜2020年3月22日付朝刊
日本経済新聞 2018年4月1日付朝刊〜2020年3月22日付朝刊