2010年01月18日
| 加来 耕三 | 歴史家・作家 | 経歴はこちら>> |
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本年は「トルコにおける日本年」であるという。日本とトルコの友好が120周年を迎え、その記念事業が両国において、めじろ押しだということは喜ばしいことである。
日本人にとって、トルコは遠い異国でしかないが、トルコの人々は「世界で一番好ましいのは日本人だ」と言ってくれている。
なぜか。日本人の大半が、すでに忘却のかなたであるにもかかわらず、トルコの人々は今も、120年前の出来事=惨劇を忘れていないからだ。
○答礼使節団の艦船が嵐で転覆
明治23年(1890)のことである。この年の9月16日の夜半、一人のトルコ人が血を流しながら、現在の和歌山県串本町の串本港沖に浮かぶ、大島――今は「くしもと大橋」で結ばれているが――の樫野崎(かしのざき)灯台に、生命(いのち)からがらたどりついた。
言葉は通じなかったが、どうやら暴風雨の中、自国の船が座礁し、沈没したらしい。船は、当時のオスマン帝国の軍艦エルトゥール号(2,344排水トン)であり、600人を超えるトルコの人々が乗船していた。
この軍艦は、日本の皇族・小松宮彰仁親王がトルコを親善訪問した答礼として、前年に皇帝アブデュルハミト2世の命により、使節オスマン=パシャを乗せて派遣された、初来日のトルコ使節団を乗せていた。この時まで、日本はトルコとの国交を持っていなかった。
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