2009年07月25日
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Q シベリアには何度も墓参に出掛けておられます。
ええ、計10回出掛けています。1969年(昭和44年)に民間旅行会社のシベリアツアーがあったんです。ハバロフスクがどうなっているかを自分の目で確かめたくて申し込みました。当時、ソ連に行く旅行者はほとんどいませんでした。たまたま夏休みだったので女房と一緒に新潟港から船で出掛けたんです。私は昭和24年8月2日にナホトカから舞鶴港に上陸したんですが、ツアーでハバロフスクに着くのも、同じ8月2日(出発は1日)だったんです。教師をしていたころは、シベリアには一度も出掛けていません。忙しくて行きたくても行けなかったんです。新潟・ハバロフスク間の飛行機が就航しているので、出掛けやすく、退職後は頻繁に訪れました。
Q 引き揚げてきた時、日本は村山さんの目にどう映りましたか。
私は肋骨を痛めていたので、ナホトカまで貨車で移動し、ナホトカ病院に1か月ほど入院して、病院船で舞鶴港に上陸しました。舞鶴に着いたときは、込み上げてくる感情を抑えることができず、涙をぽろぽろこぼして泣きました。実は収容所から実家に郵便を2回出していたのですが、届いていなかったのです。ですから、母は私の生死すらわかっていなかったのですが、迎えにきてくれていました。私はすぐに舞鶴にある海軍病院、いまの国立病院に搬送され、そこで手術を受けたあと貨車で新潟県内に入り、高田にあった軍関係の病院に2か月ほど入院したものですから、自宅に帰ったのはその年の11月ごろのことでした。
Q その後、教員になり1985年に退職。どんな思いで子供たちと接してきましたか。
中学教員になり、3年生の国語を担当しました。卒業生の最年長は今年72歳になります。自分で言うのもおかしいですが、今で言う熱血教師だったですね。歌が好きなので、教壇では十八番のロシア民謡をよく歌いました。教え子のほとんどがわたしの「カチューシャ」を聞いているでしょう。もちろん、私がシベリア抑留者ということはみんな知っていました。
Q この7月23日にもう一冊の著書「シベリアに逝きし46300名を刻む―ソ連抑留死亡者名簿をつくる―」(七つ森書館)が刊行されましたね。自費出版大賞に選ばれた本の普及版と考えていいのでしょうか。どういう経緯で出版されたのですか。
6月15日に七つ森書館の編集者から電話があって「本を購入したい」といってきたんです。どうして出版社から注文があるのか? そんなことを思っていると、それから2日後、編集者が自宅までやってきて「ルポライターの鎌田慧さんが推薦されているので」と言うんです。鎌田さんは日本自費出版文化賞の選考委員です。前々から尊敬している人でもありましたし、編集者の強い勧めもあって出版することを引き受けたんです。内容は自費出版した名簿の解説と、自費出版の本で触れていないことも盛り込んで245ページにまとめました。編集者に原稿を渡したのは6月29日でした。原稿を短時間で夢中になって書いたので、倒れるかと思いました。28日は夜の12時半まで原稿を書いていたんですが、女房に止められまして、精神安定剤を飲ませられました(笑)。
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