2009年08月12日
| 鷲田 清一 | 大阪大学総長、哲学者 | 経歴はこちら>> |
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お盆が近づいたので、たまには、亡くなったひとのことをぼんやり思い出してみよう。わたしにとっての昔の大人たちのことである。
子どものころ、身のまわりで大人たちは何を話しあっているのか、関心があった。縁側であぐらをかいて長時間、字だらけの新聞を読んでいる祖父。どんな大事なことが書いてあるのかと不思議に思っていた。床屋に行くと、隣でご主人が客と途切れることなしに何か話し込んでいる。他のひとのこと、世間のことをいろいろ話しているらしい。えらそうな顔、あきれたような顔をしきりにする。ときどき急に声をひそめ、眼で合図らしきものを送りあっている。なにか大事な秘密を伝えるかのように。
うってかわって大声で、ひとのことを褒めているらしいときもあった。だれのことを言っているのか知るよしもないが、「偉いもんやなあ……」と大人たちはうなづきあっている。そしてなぜかうまいぐあいに、散髪が終わるころには話もそれなりに、というか嘘みたいにすっと終わる。
子ども心に、なにか噂話というものを当時の大人たちが好んでいることは分かった。が、何について語らっているのかは、最後まで分からなかった。子どもの「リアル」からは推し量りようのない、うんと遠くの話であった。
一昔前の哲学者、高坂正顕は、噂話のことを「裏面の暴露」であると言い、「始めから明白な事を人は噂話の種にはしない」と言った。そして、「社会が何等か危険なる内面を蔵し、しかもそれが直接に表面化し得ざる時、そこには様々の流言飛語が乱れ飛ぶ。それも亦危険なる裏面に対する自らなる防衛の手段である」と続けた。
噂話はだからすぐに巷間に広がる。しかし、これがだれもが知る公然の秘密となると、すぐにだれも口にしなくなる。
逸話というものも口づてに広がる。が、噂話のような「毒気」はなく、むしろ日常を脱し、浮世離れした話が、だれか卓越せるひと、非凡なひとについて語りだされる。そして、非凡なひとがおこなう些事(凡人がだれでもしそうなこと)のうちに、しかも非凡なもの、脱俗的なものを見いだすことによって、その「偶像性」を保とうとする。
→次ページに続く(「ノリピー」の事件で思い出した…)