2009年04月23日
| 鷲田 清一 | 大阪大学総長、哲学者 | 経歴はこちら>> |
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お子さんにしてみれば、冷蔵庫から卵を二個取り出して、賞味期限に差があれば、まず古いほうから食べるというのがあたりまえのことである。それが不正解とされて、彼はひどく傷ついたのだった。
「どっちが新しいのか?」と問うのに「どっちを食べるか?」という問いを立てるというのがそもそも論理的でないのだが、それはさておき、この問いは、そもそも何のために新しいか古いかを調べるのか、それが判ったらでは次にどうするのかというふうに、日常生活のコンテクストのうちに位置づけられていない。
つまり、設問として孤立している。だから、この知識はついに身につくことがないし、今後も使用されることはない。
両親が共働きのため、じぶんで料理することも多かったこのお子さんは、まさかそんな無意味な問いが出されているなどとはつゆ思わず、家事というコンテクストのなかで、自分ならどうするかと考えたのである。
○社会できちんと生きるための力
「学力」も「力」の一つである以上、何かが「できる」ということである。たとえば国語の「学力」ということなら、読み書きが正確にできる、論理的な思考ができる、文章の要約ができる……などなどである。
けれどもそれらの能力を身につけることがなぜ求められるかといえば、言うまでもなく、社会のなかできちんと生きることができるためである。とすれば、教育に携わる者が何を措いてもまず問わなければならないのは、ひとは何を知るべきなのか、何がほんとうに知るに値することなのか、それを知ることが生きるということにとってどういう意味をもっているのか、ということであるはずだ。
この設問を課した教育者の念頭にこうした問いはなく、逆に、問われた子どものほうが答えるにあたってこのことをちゃんと視野に入れていた。皮肉なことである。
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