2009年04月23日
| 鷲田 清一 | 大阪大学総長、哲学者 | 経歴はこちら>> |
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全国学力・学習状況調査(いわゆる全国学力テスト)がおこなわれた。4月22日付けのどの朝刊にもその試験問題が掲載されているが、とにかく印字が細かい。
度が合わなくなっているいまの老眼鏡では眼が疲れ、とても最後まで読み通せない。裸眼にするとこんどは全体が眼に入ってこない。難儀なことである。
題材の選択に工夫がこらされており、ちょっと変わってきたかなという直感はあったが、いいかげんな感想を述べてはならない。漢字の読みが小学校、中学校とも三題だけなのは、ひょっとしてだれかへの配慮なのか……。冗談とはいえ、これは口にしてはいけないことでした。
それよりも「学力」とは何なのか。文部科学省の学習指導要領は近年、「生きる力」ということを謳ってきたが、この「生きる力」のなかに「学力」はどのように位置づけられるのか。
この説明を、わたしはこれまで、納得できるかたちで目にしたこと、耳にしたことがない。が、この点があきらかでないと、これで三回目になる学力テストが何のために続けられるのか、はっきりしない。
「学力向上」というきわめて限定された目的のために、授業の現状を分析するための調査だとすれば、50億円をかけるとは太っ腹にすぎると思わないでもない。それより教育環境の整備に資金を投入したほうがよほどいい、と。
○卵の見分け方が学校の試験に出た
「学力」ということでいつも思い出すのは、ある発達心理学者がお子さんの学校での苦い経験として語ってくださった一つのエピソードである。
そのお子さんは、小学生のころ、古い卵と新しい卵とを見分ける方法を授業で習った。黄身が高く盛り上がっているのが新しく、黄身が平べったくなっているのが古いと教わったというのである。割ってから卵の新しさを確かめるというのだから、そもそも何のための調べごとかよくわからない。
ところが、これがあとで試験に出たのである。
「図のような二つの卵があります。あなたはどちらを食べますか?」
こうした設問を課せられて、お子さんは迷いなく平べったいほうに丸をした。彼以外のクラスメートはみな、盛り上がっているほうに丸をした。結果、彼だけが「誤答」とされた。
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