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2009年03月12日

鷲田 清一 大阪大学総長、哲学者 経歴はこちら>>

「責任」という言葉(1/3)

 麻生政権の現在を名指して、「迷走」と言うひとが多い。迷走とは、どの方向に向かっているのか、走っている本人が分からいまま行き当たりばったりの発言をくりかえしていることをさしている。

 それを、発言が「ぶれる」と表現するひともこれまた多い。軸が定まらない、一貫性がない、という意味の「迷走」や「ぶれ」である。勘違いである。

 けれども、勘違いといえばもう一つ、近頃の政治家の発言には気になることがある。言葉の宛て先が不明であるという点だ。本人は国民に向かって語っているつもりが、国民のほうはじぶんに向けて語られているとはまるで思えない。そんな「ずれ」がめだつ。

 もっともこれは、なにも政治家の発言にかぎったことではない。定額給付金については、のし袋に入れてそれを配り、顰蹙を買った役場があったが、それを深々と礼をしながら受けとったひとも、いったいだれに向かって礼を言ったのか。考えようによっては粗雑な「税の還付」とでもいうべきこの給付金の配布に、そもそも礼など言う必要があるのか……。 

○なすべきことは他から求められていること

 もはや旧聞に属することだが、米国のオバマ大統領がその就任演説の最後のところで、「新しい責任の時代」というスローガンを口にし、「米国民一人ひとりが自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのではなく喜んで機会をとらえること」を訴えた(読売新聞1月22日)。

 「責任」と「義務」。なんとも古めかしい「倫理」の徳目が持ちだされているようにみえるが、この言葉に、あのケネディ大統領の就任演説のなかの有名な言葉を重ねあわせ、懐旧の思いでふれたひともきっと少なくない。

 「そして、わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。」

 この言葉によって、J・F・ケネディは、じぶんがなすべきことを、じぶんが何をしたいかというほうからではなく、じぶんが何を求められているかというほうから考えようと呼びかけた。

  →次ページに続く(震災ボランティアの「リスポンシビリティ」)

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