2009年02月20日
| 鷲田 清一 | 大阪大学総長、哲学者 | 経歴はこちら>> |
|---|
苦手な言葉に「品格」というのがある。「品格」がきらいなのではなく、大声で言われる「品格」という言葉がきらいなのである。
「国家の品格」に「女性の品格」。「品格」について語られる言葉にどれほどの品格があるか、それがつい気になる。
二つのインタビュー記事に吸い込まれた。一つは、「朝日新聞」(2009年2月15日)の「耕論」に掲載された金田一秀穂へのインタビュー。もう一つは、「読売新聞」(2月19日朝刊)に載っていた北野武へのインタビュー。
金田一は言う。「品」も「格」も、地位の高さとか社会的な階層をさすものではない。「品格」は、「俗世間とは違った価値観を示す言葉」であって、だからもともと、「政治家とか実業家にはそぐわない」。
そしてこう言葉を継ぐ。「いつの時代の流行語も、そのとき欠けているものを表している」。そういう意味では、いま「国家の価値が経済力でしか語られない」から、「品格」という言葉がその穴を埋めるべく呼び寄せられて、みずみずしく感じられたにすぎないのではないか、と。
最後は言語学者らしくこう締める。——「『品格のある日本語』というのは、借り物ではなく、自分が一番よく知っている言葉で語られるものですよね。方言なんかはとても品格がある」。ここのところ、つまり「品格」について語るその地声に言い及ぶところに、金田一の矜持が現われているとおもう。
自分について語る言葉が信用できるかどうかは、語られる自分に対してどれほどの距離がとれているかにかかっている。「離見の見」などと高尚なことを言わなくてもよい。何かについて語るとき、そのように語っている自分がどこから語りだしているのか、それについての明確な意識をもっているかどうかに、その言葉の誠はかかっている。
何かについて語るとき、いつもどこか断片的であって、語りつくすことをしない。語りだすのは否応もなくつねに地上のどこかからであって、語りつくすというのは、自分がこの地上のどこでもないある特権的な場所に自分がいると錯覚することである。それこそ品格に欠けることである。
→次ページに続く