2009年01月08日
| 鷲田 清一 | 大阪大学総長、哲学者 | 経歴はこちら>> |
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新幹線に乗ると、一行広告のようなニュースが列車の前部に流れる。近頃のテレビニュースには、情報としてなにかそれと変わらないような印象があって、いつのまにかあまり見なくなっている。
それと逆方向の現象と言っていいのかどうかわからないが、このところ単行本のしおりやはさみ広告に、手書きのものが増えている。
編集者が、かならずしも上手くない、というよりむしろ稚拙な字で手書きした、当該書物や他の刊行本を読んだ感想をしたためている。また、自然食品の店などの広告も、昔懐かしいガリ版印刷したような手書きのものが、気がつけば思いのほか増えている。
この二つの現象につられてふと連想したことがある。「普通」ということばの意味の変遷である。
○ときめきなくした「普通」ということば
「普通」ということばは、現代ではあまりポジティヴな意味では用いられない。
凡庸とか個性の欠如といった意味で、なにも見るところのないものというふうに受けとられている。ひとびとは「普通」を求めるより、「普通」でなくなるところに、人としてのきらめき、もしくは人生の輝きを求めているようだ。
けれども「普通」はそれをはじめてひとが口にしたとき、ときめきのあることばだった。
たとえば「普通選挙」や「普通教育」。「普通選挙」というのは、『広辞苑』の記述を引けば、「身分・性別・教育・信仰・財産・納税などを以て選挙権の制限的要件としない選挙。わが国では明治三〇年頃から普通選挙権獲得運動が組織され、第一次世界大戦後の民主主義思想の普及と労働者・農民運動の激化とに支えられて、大正一四年ようやく男子のそれが実現をみた」とある。要するにそれは制限選挙を打ち破る革新的な理念として構想された。
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