2008年10月08日
| 鷲田 清一 | 大阪大学総長、哲学者 | 経歴はこちら>> |
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なにか正面から反対しにくい問題というのが、いまの日本には意外と多くある。たとえば「エコ」。いま、環境保護におそらく反対する人はいないだろう。けれども環境保護がめざす人類文明のサステイナビリティ(持続可能性)についていえば、人類文明が育んできた諸価値のうちのいったい何をサステインするのかについて、きちんと議論されてきたとはおもわれない。
それをせずにただこの文明が持続することを願うのは、環境問題を引き起こしている当の文明を自己検証もせずにただ延命させるという惰性とどう異なるのか、わたしには分からない。くわえて、地球温暖化が科学的に実証されたことなのか、二酸化炭素の排出量というのがその主たる原因として特定できるのか、「エコ」としてわたしたちが試みている小さな努力の数々がほんとうに環境危機への対処策となっているのか……。こうした問いよりも、それを大きな声では発しにくい空気のほうが、わたしたちにははるかにリアルに迫っている。
○まかり通る「合い言葉」に思考停止していないか
あるいは、「コミュニティ」という合い言葉。かつて多くの若者があれほどそこから出たがっていたコミュニティ、つまりは地域共同体に、ひとはなぜなんのためらいもなく憧れるのか。コミュニティはかつてわたしたちがそれから逃れたいものの筆頭ではなかったのか。そうした帰趨を顧みつつ「コミュニティ」の概念がいまこの社会でもつ意味を検証する作業というのも、社会科学者の使命のようにおもうのだが、これも本気で取り組まれているようには見えない。
「安心・安全」がいかに監視社会の深化と連動しているかの指摘も、なにかひねくれ者の発言であるかのように受けとられる。わたしたちを元気にしてくれる(らしい)「アート」の称揚が、じつは逆に、21世紀芸術に賭けるぎりぎりの格闘を殺いでいるということにもあまり注意は払われない。
あるいは「イノベーション」。<新しさ>の形而上学こそ近代という時代を空転させることになった元凶であることの指摘も無視して、「イノベーション」がいまも溌剌と呼びかけられる。
そして最後に、「公共性」。そんなに容易に共通利害が確定できるのかという懐疑は吹き飛ばされて、「公共性」という観念だけが時代を抉るものとして無条件に称揚される……。 まるでこぞって問題を、ああでもない、こうでもないとじっくり吟味する余裕もないままに、思考停止状態に陥っているという印象が拭えない。いいかえると、論理に代わってイメージの連接が、推論を駆動してかのような印象が拭えない。
「イデオロギー」とは、だれも表だっては反対できない思想のことである。対抗がひじょうにしにくい力学、それにだれも異を唱えにくいというような状況が広がっているのではないか。思考の地平が一元化し、べたーっと均らされているような、そんな思考停止の状況が。
国会での首相の所信表明とこれに対する野党の質問、つづく衆議院予算委員会での審議においても、自民党と民主党のどちらが与党なのか分からない、いわば逆転した議論の応酬がなされている。国民はそれぞれに主張される政策を注視しても、もはやそうした政策の基となる政党のイデオロギーで正否を決めようとはしていない。というか、イデオロギーの差異じたいが見えにくくなっている。
○「対立軸」が消えたあとに蔓延するもの
「イデオロギーの終焉」が言われてずいぶん久しい。「イデオロギーの終焉」は戦後幾度となく口にされてきたが、世界的には1989年のベルリンの壁崩壊の後、東西の冷戦、つまりは自由主義と社会主義の対立がなしくずし的に消えたあと、国内的には1996年の社会党の解党を象徴的な出来事として、その後左右の対立がほとんど見えなくなったあと、そもそも「イデオロギーの終焉」という言い方じたいが終焉してしまったかのようだ。
冷戦の終わりとともにイデオロギーの時代が終焉したのではなく、ほんとうは逆に、冷戦の終わりとともにこんどはイデオロギーの時代がやってきたのではないだろうか。イデオロギーの決定的な対立軸が消えてしまうと、こんどはだれも表だっては反対できない思想が蔓延しだす……。なんとも気の萎える状況ではある。
→あす(9日)の新聞案内人は、林香里さんです。