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2010年08月31日

西島 雄造 ジャーナリスト、元読売新聞芸能部長 経歴はこちら>>

さまざまに語り継がれる戦争(1/3)

 猛暑の8月が終わろうとしている。

 月の終わり、つかの間の避暑に福島の岳温泉へ出かけた。安達太良を望みながらも、照りつける日差しの強さはかわらなかったが、忘れず夕刻に訪れる雷雨が涼を運んだ。

 散歩の途中で<開拓牛乳>の看板に誘われ立ち寄った。うかつにも「珍しい名前だが、製造工場はどこに」などと尋ねると、「ここら一帯が開拓村だったから」と、周辺の酪農家で採乳される牛乳の製品名であることを教えてくれた。

 少し離れたところに≪開拓の碑≫があった。「大陸の地に王道楽土の建設を志して旧満州三江省鶴立県連江口村に入植したのは昭和十二年四月である」と、碑文は始まっていた。異国の大地で福島村の建設に心血をそそいだが敗戦。800人中約半数が裸一貫で引揚げ、安達太良のすそ野に福島村開拓団を組織した。悪条件を克服して「今や酪農、高冷地蔬菜等の生産は他を凌ぐものがあり営農の礎漸く定まった感がある」と、入植三十周年を誇らしげに記念して、1976年11月に碑が建立された。

○学童疎開の記録

 翌日、温泉街のはずれに広がる鏡ヶ池のほとりで≪しだれ桜記念植樹≫の立札が目についた。「東京都牛込区内国民学校『岳児童疎開有志一同』」と、添え書きされていた。牛込区内(現新宿区)の11の国民学校の児童383人が、終戦後の10月まで約8か月間、親元から離れて岳温泉の9旅館で寝起きしたという。

 昨年、宮城県作並温泉を訪れた折りにも、岩松旅館に掲げられていた≪東京浅草小学校学童疎開記念≫の柱時計に釘付けになった。東京・台東区花川戸の浅草小はことし創立135年の名門校。関東大震災では焼け落ちたが、1945年の東京大空襲では奇跡的に校舎が残った。同校の3年生以上407人も、作並温泉に集団疎開したとの記録がある。

 「皇国を継ぐ若木の生命を守るため」実施された学童疎開で、親恋しさとひもじい思いに耐えた子どもたち。ようやく東京に戻ることが出来ても、家は焼け落ち、肉親は亡くなり、戦災孤児となった子どもも多かった。

 鏡ヶ池で東京・江戸川区からドライブ旅行の夫妻に出会った。話の途中で同じ年齢とわかり、同年輩の気安さもあって、問わず語りが始まった。妻はやはり大空襲で肉親を亡くしたと淡々と語った。戦後、町工場を起こして懸命に働き、ようやく長男に経営を任せて、スケッチ旅行の楽しみを見つけたと、ほどなく75歳になる夫も戦後の働きを振り返った。

  →次ページに続く(戦後65年の記事)

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