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2009年08月06日

水木 楊 作家、元日本経済新聞論説主幹 経歴はこちら>>

「国民」という言葉の不遜(1/2)

 以前から気になっていたことがあります。それは、テレビでキャスターやコメンテーターたちが、いともお手軽に「国民」という言葉を使うことです。

 いわく、「国民に説明しなければなりません」「国民に見えてこないのです」「国民不在の騒ぎではありませんか」「国民の側から見ると、すごく分かりにくいのです」……。

 「国民」という言葉が出てくる度に、白けた気分になり、チャネルを回してしまいます。ところが、ワイドショーというのは、みな同じ時間にやっているらしく、あちらこちらで「国民」に出くわすばかり。行き場を失った私は、ザッピングを繰り返す羽目になります。

 この人たちが、もっともそうな顔をして口にする「国民」とは、一体誰のことなのか。
 選挙にまったく無関心の街ゆく人々も、「売った、買った」で一喜一憂する兜町の投機家たちも、社会保険庁・農水省など不祥事続きの官庁の役人も、違法すれすれの政治献金を集める政治家秘書たちも、ごく普通のサラリーマンも街の八百屋さんや魚屋さんも、みな「国民」であることに変わりはありません。

○「私は…」と言えばいいのではないか

 テレビのキャスターやコメンテーターたちが言う「国民」などという抽象的なものは実在せず、実は彼ら自身のことなのではないか。それならそれで、「国民」などという言葉は使わず、「私」と言えばいいではないか。にもかかわらず、「国民」を使うのは、この言葉がいわば「葵のご紋」になっているのではないか。国民のため、と言うと、もっともそうな響きがあるからではないか。

 「夜郎自大」という言葉があります。中国・前漢の時代に、いまの雲南省のあたりに夜郎という国があり、大した力もないくせに、自分を大きくして見せたことから生じた言葉ですが、キャスターやコメンテーターが「国民」を口にする度、この夜郎自大という言葉が浮かんできます。「お前たちに国民を代表する役割を与えたつもりはないぞ」と怒鳴りたくなるのは、この私だけでしょうか。

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