2009年04月16日
| 水木 楊 | 作家、元日本経済新聞論説主幹 | 経歴はこちら>> |
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記者が普通のニュース記事を書く場合、「私は…こう思った」とか「…こう感じた」という主語は出しません。出したら、たちまちデスクにどやされて記事はボツになることでしょう。
ところが、「私」という言葉は登場しないものの、行間に「私」が顔を潜ませている記事の溢れているページがあることをご存知でしょうか。それが運動面、スポーツ面です。左様、運動面の記事は記者の個人的な物差しなしでは成立しないのです。
具体的な例を挙げてみましょう。4月11日の阪神―巨人戦で、阪神の金本選手が1試合3本のホームランを打ちました。試合は阪神の負けとなりましたが、2日前にも同じように1試合3本打ったのですから、これはニュースです。
ところが、3紙の書き出しはみな違います。
「2日前に3打席連続本塁打を放った阪神の金本選手が、また3連発をかっ飛ばした」(朝日)
「阪神の4番打者の勢いが止まらない」(日経)
「主役の大当たりが成績に反映しないのがもどかしい」(読売)
○“ニュースな”金本選手の活躍、書き出しみな違う
純粋に客観的な記事を書くなら、1回から始まって9回にいたるまで、どんなことが起きたのかを記録すべきでしょうが、そんな記事はほとんど見あたりません。
劇的なプレーが起きたところから始めたり、特定選手の活躍に焦点をしぼったり、監督の采配から書き出したりで、みな違うのです。つまり、記者の「私」がそこにいる。
逆に、「私」の気配が最も少ないのが経済記事でしょう。
→次ページに続く(一般ニュースに許されない「私」)