2008年09月03日
| 水木 楊 | 作家、元日本経済新聞論説主幹 | 経歴はこちら>> |
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新聞記事には、語尾が「という」で終わる文章が結構あります。例えば、「不可避の判断を固めていたという」とか、「供述したという」とかです。この「という記事」の被害を受けた経営者の友人がいました。彼の会社が不祥事に関与した「という」と、新聞に書かれたのです。
結局は「シロ」だったのですが、「一度も取材に来ずに、『という』と書かれたため、会社のイメージがダウンしてしまった」と憤慨していました。
「という記事」は諸刃の剣のようなもので、書かれた人を傷つけることもあれば、記事に深みや面白みを与える効果もあります。そういうわけで、「という」の表現がどれくらいあるかを、調べてみようと思い立ったのです。
○“裏付け不十分”でも“確度の高い推測”なら?
期間はこの8月25日から31日までの1週間。対象は「あらたにす」参加3紙の一面、政治面、国際面、経済面、そして社会面です。私一人でやりましたので、見落としもあるかもしれませんが、結果は合計155回、「という」がありました。結構な数字と言うべきでしょう。内訳は、一面18回、政治面18回、国際面28回、経済面16回、社会面75回です。
では、どういう場合に「という」の表現を新聞記者たちは使うのでしょう。定められたルールがあるわけではありませんし、時と場合によって違うので一概に言えませんが、英語で言うなら「It is said…」。独自の取材をしたのだが、最終的に確認をとるまでには至っていないケースとか、当局が漏らした場合とかがまず考えられます。また、そう書いてもそれほど間違いではなさそうだと記者自身が判断した場合もあるでしょう。確度の高い推測とでもいいましょうか。
「という記事」は事件ものに多くなります。勢い社会面に多くなるわけです。政治面、経済面には少ないのですが、その代わり、「見方が多い」とか「可能性が大きい」とかの表現が増えます。
「という」によく似た表現に「とされる」とか「みられる」があります。「とされる」はかなり一般的な認識が広がっている場合で、「とみられる」は「という」に似ていますが、それより少々漠然としている場合ではないかと思われます。
調べてみて、途中で思わず、うーんと唸ってしまったのは、1本に5回も「という」が使われている記事のあったことです。これはいくら何でも多すぎる。
○取材努力と「書かれる側」への配慮必要
では、「という記事」を全部撲滅してしまったらいいのか、となると、そういうわけにはいきません。記事が無味乾燥になってしまうのです。
よい例が発表記事。「という」の語尾がほとんどない。新聞記事全体が発表物や、100%確定した事実だけを知らせるものになってしまったら、読む側はたまりません。また、独自取材の記事でも、役所の法案や審議会の報告書をすっぱ抜いたものは、あまり面白くない。人間の動きが感じられないからです。
大切なことは、「という」を用いるとき、記者自身がどれくらい、その表現に責任を持って書いているかでありましょう。語尾のことに、それほど気を使う暇はないと言われてしまいそうですが、書かれる側から見れば、社会的な生死にかかわる場合もあるということです。
イソップにあるではないですか。少年たちがカエルに石を投げて遊んでいる。カエルは猛然と抗議をする。「あなたたちは遊びかもしれないが、こちらは命がけなんだ」。記者たちは遊んでいるわけではありませんが、書かれる側の心情を無視していいということにはなりません。
これから読者のみなさんも、「という記事」にお目にかかったら、その表現の背後にどれくらい記者の取材努力がなされているかを想像することにしてみたらどうでしょうか。
記事の行間を読む面白さが増すというものです。