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2008年04月09日

水木 楊 作家、元日本経済新聞論説主幹 経歴はこちら>>

厄介な「人事」取材、私の失敗談

 もみにもんだ日銀総裁は、副総裁の白川方明氏の昇格ということで落ち着いたようですが、ここに至るまで、どうなることやらと皆がやきもきしたことでした。なかんずく早く決めてくれないかと悲鳴を上げていたのは、日夜取材に明け暮れる担当記者たちではなかったでしょうか。

 新聞社にいた頃の経験からすると、人事というのは一番厄介な取材です。取材先に行っても、簡単には「この人だよ」などと教えてはくれません。重要人事になると、なおさらです。夜討ち、朝駆けを繰り返し、相手の言葉に微妙な変化があるかどうかを必死の思いで観察する。

 日銀総裁人事のたぐいは、1人だけではなく、かなりたくさんの記者があちこち飛び回る。その結果を本社のデスクにある取材ノートに書き記す。それを皆が見て、自分の取材と突き合わせる。どのような記事にするかの最終的な判断はデスクに任せられる。デスクにとっては、胃が痛くなるような毎日だったに違いありません。

 私事にわたりますが、今日は失敗談をお話ししましょう。1979年12月16日の深夜、朝刊の締め切りが迫った編集局経済部に、私は当番デスクとして座っていました。政府が任期切れとなる日銀総裁を決定する最後の夜だったのです。候補となっていたのは、元大蔵次官の澄田智氏、元日銀副総裁の前川春雄氏、そのほか民間の金融人などの名前が挙がっていました。

 続々と出先から記者たちが戻ってきて、彼らの話を総合した結果、「澄田氏で確か」という結論になりました。その内容は、取材ノートに記されているものともほぼ同じでした。さあ、どうするということになり、エイヤッと私は決断しました。「よし、一面トップでいこう」

 これが私のミスジャッジだったのです。各紙とも、最後まで確信が持てなかったらしく、翌日の記事は「澄田氏有力」とか「澄田氏へ」とかの曖昧な見出しで、一面トップにはしていませんでした。 一面トップを決断したのは、それまでに日経が「澄田氏、有力」を書いており、同じ記事を載せるわけにもいかないという事情もありましたし、必死の面持ちの記者たちの労に報いてやりたいという“浪花節”もあったでしょう。経済新聞らしく他紙を圧倒させてやりたいという余計な心意気が、何よりも働いていました。

 新聞の輪転機が回ってしまった明け方の2時頃、自民党幹事長だった竹下登邸から戻ってきた2人の記者が顔面蒼白になり、体を震わせながら告げました。「新総裁は澄田氏ではない。前川春雄氏だ」

 私は経済部長宅に電話を入れ、竹下邸のことを報告しました。「そうか…」と、経済部長は沈痛な声を出しました。明けて朝のNHKニュースは、日銀総裁に前川春雄氏が決まったことを報じていました。大誤報が確定したのです。

 女房に筆と半紙を持ってこさせ、辞表を書きました。社に上がり、それを部長に提出しました。「俺も書いたよ」と、部長は同じような文言を記した半紙を見せてくれました。

 役員会では、部長と私に対する懲戒免職を口にする社長を、編集担当の前編集局長がなだめてくれて、結局「減俸譴責(けんせき)」が決まりました。その辞令が編集局の入り口にある掲示板に貼り出されました。その前を通るのが嫌で、会社に来る地下鉄の駅の階段で足がすくみ、そのまま引き返してしまおうかと思ったこともありました。あれで引き返したら、私は“登校拒否”となっていたでしょう。

 誰かが動かしていたのではないでしょうか。掲示板に貼られた辞令は毎日、目に見えない速度で下がっていき、ついには足で蹴飛ばさなければ分からない場所に落ち着きました。人の情けが身にしみた一幕でした。

 あれ以来、何か思い切ったことをしようというとき、「ちょっと待てよ」という声が心のどこからかかかるようになりました。日銀総裁人事というと、いつもほろ苦く、それでいて何かしら懐かしい思いが湧いてくる、そんな歳となりました。

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